られて来たんだろうが、さすがはお武家の女たちだな」
「ちっとも取り乱した様子を見せないぜ」
かれらのうしろ姿を見送って、人々はささやいていた。吉五郎は猶もそこにたたずんで、検視の来るのを待っていたが、役人は容易に来なかった。真昼の春の日を浴びて、人込みのなかに立っていて、彼は少し逆上《のぼ》せて来たので、あとへさがって河岸端《かしばた》の茶店へはいると、兼松もつづいて葭簀《よしず》のうちへはいって来た。
「死骸は瓜生さんの娘に相違ないそうですよ」と、彼は小声で云った。
「むむ。あの女たちの様子で判っている」と、吉五郎もうなずいた。「だが、おれの鑑定もまんざら外《はず》れたわけじゃあねえ。あの死骸は寺で殺されたんじゃあねえ。自身番の奴が莚をまくったときに、おれもそっと覗いてみたが、死骸の顔にも頸のまわりにも疵らしい痕はなんにも見えなかった。第一、人に殺されたような顔じゃあねえ」
「じゃあ、唯の身投げでしょうか」
「まずそうだろうな。寺で殺された女はほかにある筈だ」と、云いかけて吉五郎は葭簀の外を覗いた。「おい。兼、あすこで源蔵と立ち話をしている中間《ちゅうげん》は、どこの屋敷の奴だか、そっと源蔵に訊《き》いてみろ」
「あい、あい」
兼松は駈け出して行ったが、やがて又引っ返して来た。
「あれは佐藤の屋敷の中間で、鉄造というのだそうです」
「そうか。留がいるといいんだが……」と、吉五郎は舌打ちした。「まあ、いい。おれが直《じ》かに当たってみよう。おめえはここに残っていて、検視の来るまで見張っていてくれ」
吉五郎は茶店を出ると、かの中間はまだそこを立ち去らずに、あとからだんだんに集まって来る見物人の顔を、じろじろと眺めていた。そのそばへ摺り寄って、吉五郎は馴れなれしく声をかけた。
「おい、兄《あに》い、済まねえが、ちょいと顔を貸してくんねえか」
「おめえは誰だ」と、中間は睨むように相手の顔を見返った。
「おめえは三河町の留という野郎を識っているだろう」
「三河町の……留……」と、中間はその眼をいよいよ光らせた。「その留がどうしたんだ」
「留が少し怪我をしたので、おれが代りに来たんだ。野暮を云わねえで、そこまで一緒に来てくんねえ」
「むむ、そうか」
中間も相手の何者であるかを大抵推量したらしく、思いのほか素直に誘い出されたので、吉五郎は先きに立って彼を元の小料理屋へ連れ込むと、さっき余分の祝儀をやった効目《ききめ》があらわれて、女中はしきりに世辞を云いながら二人を二階へ案内した。
「おめえは三河町の吉五郎だろう。なんで俺をこんな所へ連れて来たんだ」と、中間の鉄造はおちつかないような顔をして云った。
「まあ、待ちねえ。だんだんに話をする」
酒と肴を注文して、女中を遠ざけた後に、吉五郎は打ちくつろいで話し出した。
「このあいだ中《ちゅう》から内の留がいろいろおめえの御厄介になっているそうだが……」
「なに、別にどうと云うこともねえんだが……」と、鉄造はまだ油断しないように眼をひからせていた。
「川へ揚がった死骸は、御賄屋敷の瓜生さんの娘だろうね」
「むむ」
「どうして死んだんだね」
「おらあ知らねえ」
「知らねえかえ」と、吉五郎は考えていた。「それはまあ知らねえとして、ゆうべの夜なかにおめえは何処へ行ったえ」
鉄造は黙っていた。
「あの風の吹く夜なかに、犬に吠えられながら二人連れで何処へ行ったんだよ」と、吉五郎はかさねて訊いた。
「おらあそんな覚えはねえ」と、鉄造は声を尖《とが》らせた。
「それじゃあ人違いかな。お近さんの死骸を運んで行ったのは、おめえ達じゃあなかったかな」
相手の顔色の変ったのを見て、吉五郎は畳みかけて云った。
「おめえ達はふだんからお近さんの世話になって、相当に小遣いも貰っていたんじゃあねえか。よんどころなく頼まれたとは云いながら、その死骸を捨てる役を引き受けちゃあ、あんまり後生《ごしょう》がよくあるめえぜ」
「なんと云われても、そんな覚えはねえよ」と、鉄造は再び声を尖らせた。
「そう喧嘩腰になっちゃあいけねえ。おたがいに仲よく一杯飲みながら話そうと思っているんだ」
あたかも女中が膳を運んで来たので、話はしばらく途切れた。女中に酌をさせて一杯ずつ飲んだ後に、ふたりは再び差しむかいになった。
「目白坂下の寺は、おめえの屋敷の菩提所《ぼだいしょ》かえ」と、吉五郎は猪口《ちょこ》を差しながら訊いた。
「そうじゃあねえ」
「それじゃあ、お近さんの識っている寺かえ」
「おらあ知らねえ」
「何を云っても知らねえ知らねえじゃあ、あんまり愛嬌が無さ過ぎるな」と、吉五郎は笑った。「もう少し色気のある返事をして貰おうじゃあねえか」
「色気があっても無くっても、知らねえことは知らねえと云うよりほかはねえ。木刀をさしていても、おれも屋敷の飯を食っている人間だ。むやみにおめえ達の調べは受けねえ」
素直にここまで出て来ながら、今さら喧嘩腰になって気の強いことを云うのは、俄かに一種の恐怖を感じて来たに相違ない。それがうしろ暗い証拠であると、吉五郎は多年の経験で早くも覚《さと》った。
「まったくおめえの云う通りだ。屋敷奉公のおめえ達をこんな所へ連れ込んで、むやみに調べるという訳じゃあねえ」と、吉五郎は諭《さと》すように云った。「留吉はおれの子分だ。おめえもその留吉と心安くしている以上、おれともまんざらの他人という筋でもねえ。それだから、ここまで来て貰って、おめえの知っているだけのことを……」
「その留吉だって昨日《きのう》きょうの顔なじみだ。別に心安いという仲じゃあねえ」
「どこまで行っても喧嘩腰だな」と、吉五郎はまた笑った。「それじゃあもうなんにも訊くめえが、おれの方じゃあおめえを他人と思わねえから、唯ひと言云って置くことがある。おめえ、あの屋敷に長くいるのは為にならねえぜ」
「なぜだ」
「白魚河岸の吉田幸之助というのは、おめえの主人とは縁つづきで、ふだんから出入りをしているうちに、お近さんと仲好くなった。それが又、不思議な廻《めぐ》り合わせで、近所の御賄屋敷へ養子に来るようになった。女房になる筈のお勝という娘は病気で、直ぐには婚礼も出来ねえそのうちに、隣りの娘と出来合ってしまった。それがお近さんに知れたので、やきもち喧嘩で大騒ぎだ。まあ、それまではいいとしても、それが為に幸之助は身を隠す、お勝という娘は自害する、お北という娘は身を投げる、お近さんは殺される。これほどの騒動が出来《しゅったい》しちゃあ、唯済むわけのものじゃあねえ。積もってみても知れたことだ。お気の毒だが、おめえの主人も係り合いで、なにかの迷惑は逃《の》がれめえと思う。そんな屋敷に長居をすりゃあ、おめえ達もどんな巻き添えを喰わねえとも限らねえ。まあそうじゃあねえか」
鉄造は息を呑むように黙っていた。
「そればかりじゃあねえ。このごろ世間を騒がしている、白い蝶々の種もすっかり挙がっているんだ。火の番の娘のお冬という奴が、菅糸を付けて飛ばしているに相違ねえ」
「おめえはどうしてそんなことを云うんだ」と、鉄造はあわてたように訊き返した。
「そのくらいの事を知らねえようじゃあ、上《かみ》の御用は勤まらねえ」と、吉五郎はあざ笑った。「もう斯うなったら仕方がねえ。方々に迷惑する人が出来るのだ。おめえも覚悟していてくれ」
「嚇《おど》かしちゃあいけねえ。おれはなんにも知らねえと云うのに……」と、鉄造は少しく弱い音をふき出した。
「おれは別に覚悟するほどの悪いことをしやあしねえ」
「これだけ云っても、おめえに判らなけりゃあ、もういいや。そんな野暮な話は止めにして、まあゆっくりと飲むとしようぜ」
吉五郎は手をたたいて酒の代りを頼んだ。肴もあつらえた。そうして、無言で酌をしてやると、鉄造もだまって飲んだ。吉五郎も黙って飲んだ。二人はややしばらく無言で猪口のやり取りをしていた。ただ時々に吉五郎は睨むように相手の顔を見た。鉄造も偸《ぬす》むように相手の顔色を窺った。
云うまでもなく、これは一種の精神的|拷問《ごうもん》である。こうして無言の時を移しているあいだに、うしろ暗い人間はだんだんに弱って来て、果ては堪えられなくなるのである。元来が図太い人間は、更にそのあいだに度胸を据え直すという術《すべ》もあるが、大抵の人間はこの無言の責め苦に堪え切れないで、結局は屈伏することになる。鉄造もこの拷問に堪えられなくなって来たらしく、手酌でむやみに飲みはじめた。
相手が思う壺にはまって来たらしいのを見て、吉五郎はいよいよ沈黙をつづけていると、鉄造も黙って飲んでいた。代りの徳利が三、四本も列べられた。
「どういうものか、きょうは酔わねえ」と、鉄造はひとり言のように云いながら、吉五郎の顔を見た。
吉五郎はじろりと見返ったが、やはり黙っていた。鉄造も黙って又飲んでいたが、やがて再び口を切った。
「おめえはもう飲まねえのか」
吉五郎は答えなかった。鉄造も黙って又飲んだが、やがて更に云い出した。
「おい、おれ一人で飲んでいちゃあ、なんだか寂しくっていけねえ。おめえも飲まねえかよ」
吉五郎はやはり答えなかった。鉄造も黙って手酌で又飲んだが、徳利や猪口《ちょこ》を持つ手が次第にふるえ出した。彼は訴えるように云った。
「おい。なんとか返事をしてくれねえかよ。寂しくっていけねえ」
吉五郎は再びじろりと見返ったままで答えなかった。鉄造は彼自身も云う通り、きょうは全く酔わないのであろう、むしろ反対にその顔はいよいよ蒼ざめて来た。泣くように又訴えた。
「おい。おめえはなぜ黙っているんだよ」
「そりゃあこっちで云うことだ」と、吉五郎は初めて口を切った。「おめえはなぜ黙っているんだよ」
「黙っていやあしねえ。おめえが黙っているんだ」
「それじゃあ俺の訊くことを、なぜ云わねえ」と、吉五郎は鋭く睨み付けた。
「だって、なんにも知らねえんだ」と、鉄造は吃りながら云った。
「きっと知らねえか。知らなけりゃあ訊かねえまでのことだ。おれも黙っているから、おめえも黙っていろ」
「もう黙っちゃあいられねえ」
「それじゃあ云うか」
「云うよ、云うよ」と、鉄造は悲鳴に近い声をあげた。
「嘘をつくなよ」
「嘘はつかねえ。みんな云うよ」
「まあ、待て」
吉五郎は立って、階子《はしご》の下をちょっと覗いたが、引っ返して来て再び鉄造とむかい合った。
「さあ、おれの方からは一々訊かねえ。おめえの知っているだけのことを残らず云ってしまえ」
初めの喧嘩腰とは打ってかわって、鉄造はもろくも敵のまえに兜《かぶと》をぬいだ。それでも彼はまだ未練らしく云った。
「おれがべらべらしゃべってしまった後で、おめえは俺をどうするんだ」
「どうもしねえ、助けてやるよ」
「助けてくれるか」
鉄造はほっ[#「ほっ」に傍点]としたような顔をした。吉五郎は彼に勇気を付けるために、徳利を取って酌をしてやった。
一四
姉のお北の死骸が江戸川に浮かびあがった時、弟の瓜生長三郎は向島の堤下《どてした》をあるいていた。
彼はきのうも姉のゆくえを尋ねあるいて、本所まで来たのであるが、日が暮れたので途中から帰った。そうして、親子相談の末、きょうも、長三郎は小松川から小梅、綾瀬、千住の方面に向かい、父の長八も非番であるので、これは山の手の方角に向かうことになった。今と違って、その時代の人々は親類縁者の義理をかかさず、それからそれへと遠縁の者までもふだんの交遊をしているので、こういう場合には心当たりがすこぶる多く、殊に交通不便の時代であるから、親類縁者を一巡さがし廻るだけでも容易でなかった。
長三郎はまず小松川と小梅の縁者をたずねると、どこにも姉のすがたは見えなかった。かえって先方では寝耳に水の家出沙汰におどろかされて、長三郎にむかって前後の事情などを詳《くわ》しく詮議した。それらのために案外に暇取って、小梅を出たのは、もう七ツ(午後四時)を過ぎた頃であった。
旧暦の二月なかばであるから、春の彼岸《ひがん》ももう近づいて、寺の多い小梅のあたりは
前へ
次へ
全17ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング