ので、そのまま這い起きて羽織をかさねた。例の物音が気になるので、彼はそっと縁側へ出てみると、庭さきはもう綺麗に掃いてあって、そこで掴み合いのあったらしい形跡は残されていなかった。それでも彼は庭下駄を突っかけて、覚束《おぼつか》ない足どりで庭に降りた。
ゆうべの風はいつか吹きやんで、今朝はうららかに晴れていた。庭のまん中にある桜の大樹も、もうひと雨でほころびそうに紅《あか》らんで、春をよろこぶ小鳥の声が賑やかに聞こえた。よく見ると、その木の下には古い苔《こけ》を踏み荒らした足跡が残っている。怪しい物音は自分の空耳《そらみみ》でなかったことを確かめて、留吉は又もや独りで笑いながら、身を屈《かが》めてそこらあたりを見まわしたが、別にこれぞという物も見いだされなかった。
痛むからだを我慢して、さらに墓場の方へ行きかかる時、ふと見かえると住職の祐道が法衣《ころも》すがたで自分のうしろに突っ立っていたので、留吉はすこし慌てながら挨拶すると、祐道はその蒼ざめた顔に笑みを含みながら云った。
「お痛み所はいかがですな」
「おかげさまで、よほど楽になりました」
「それは結構でござる。まあ、ご大切になさい。昨夜も申し上げた通り、わたしも風邪《かぜ》で引き籠って居りましたが、今朝はよんどころない法用で唯今から外出いたします。吉五郎どのが見えましたらば、宜しくお伝えください」
「行ってらっしゃい」と、留吉も丁寧に会釈した。
「では、御免」
祐道はそのまま立ち去った。そのうしろ姿が植え込みの八つ手の大きな葉かげに隠れるのを見送っているうちに、八つ手の葉が二、三枚新らしく折れているらしいのが留吉の眼についた。近寄って見ると、下葉は果たして折れていた。しかも何者かが無理に掴んで引き折ったらしく見えた。おそらく昨夜の格闘の際に、一方の相手が何かのはずみに下葉を掴んだのであろう。そう思いながら更に見まわすと、その折れかかった下葉の裏に白い糸屑が引っかかっていた。早朝に掃除をした者も、さすがにそこまでは気がつかなかったらしい。留吉はその糸屑をとって、朝のひかりに透かしてみると、糸の長さは四、五寸で、俗に菅糸《すがいと》という極めて細いものであった。
女の住んでいない寺中《じちゅう》では、僧侶が針や鋏を持つことが無いとも云えない。その糸屑が庭さきに散っていたとて、さのみ怪しむにも足らないかも知れないが、留吉はゆうべの一件を思い合わせて、この糸屑にも何かの仔細があるらしく疑われたので、あたりを窺いながらそっと自分の袂に忍ばせた。
庭さきに余り長く徘徊《はいかい》していて、他の僧らに怪しまれては何かの邪魔であると思ったので、留吉は縁側に這いあがって、再び元の寝床の上に坐っていると、やがて小坊主が朝飯を運んで来て、きょうは起きられるかと訊いたので、どうにか起きられるようにはなったが、まだ手足の自由が利かないから、迎いの駕籠の来るまでは斯《こ》うして置いてくれと、留吉は頼んだ。小坊主はこころよく承知して、どうぞごゆっくりと答えて去った。
午《ひる》に近い頃に、吉五郎は迎いの駕籠を吊らせて来て、納所坊主や寺男に礼を云って、留吉を受け取って出た。出るときに、吉五郎は寺男の弥七に幾らかの銀《かね》をつつんでやった。
「親分。不動さまの境内《けいだい》まで駕籠をやってください」と、留吉は小声で云った。
駕籠は音羽の大通りへ出ないで反対の方角にむかって目白坂をのぼった。不動の門前に駕籠をおろさせて、駕籠屋をそこに待たせて置いて、留吉は親分に扶《たす》けられながら門内にはいったが、人目を憚《はばか》る彼等は、客をよぶ掛茶屋をよそに見て、鐘撞堂の石垣のかげに立った。
「どうだ、留。早速だが、なにか種は挙がったか」と、吉五郎は頬かむりの顔をすり寄せて訊いた。
「別に面白いこともありませんでしたが……。でも、一つ二つ……」
留吉は先ず夜なかの格闘の一件を話した。それから彼《か》の糸屑を出してみせると、吉五郎は一と目見て笑い出した。
「はは、これだ、これだ。実はこの菅糸をおれも見たよ」
「どこで見ました」
「江戸川橋の上で……。ゆうべおめえに別れてから、風の吹くなかを帰って行くと、橋の上で火の番の娘を見つけたんだ」
「お冬があんな所をうろついていましたか」
「一旦ここを逃げてから、どこをどう迂路《うろ》ついていたのか知らねえが、橋の上で若い侍と話していて、おれの足音を聞きつけると直ぐにまた逃げてしまった」
「その侍は何者です」
「その侍は御賄組の瓜生長三郎……。このごろ家出をしたお北という娘の弟だ。いや、それはまあ後《あと》のことにして、おれがその侍と話しているうちに、一つの白い蝶々がひらひらと舞いあがった」
「ふうむ。白い蝶々が又出ましたかえ」と、留吉も眼をみはった。
「おれの鑑定《かんてい》では、お冬の袂から地面に一旦落ちたのを、強い風に吹きあげられて……。まあ、そう思うより仕方がねえ」と、吉五郎は説明した。「侍の持っている提灯の火で透かして視ると、その蝶々には細い糸が付いている……。細くって、光っているのを見ると、これだ、この菅糸だ。中途で切れたと見えて、やっぱり七、八寸ぐらいしか付いていなかったが、おれの眼には確かに菅糸と見えたんだ」
「その蝶々はどうしました」
「つかまえようと思ううちに、風の吹きまわしで川のなかへ落ちてしまったが、蝶々も生き物じゃあねえ、薄い紙か絹のような物で上手に拵《こしら》えたんだろうと思う。暗いなかで光るのは、羽《はね》に何かの薬が塗ってあるんだな。早く云えばお化けのような物だ」
この時代には、子供の玩具《おもちゃ》に「お化け」と云うものがあった。燐のたぐいを用いたもので、それを水に溶かして人家の板塀または土蔵の白壁などに幽霊や大入道のすがたを書いて置くと、昼ははっきりと見えないが、暗い夜にはその姿が浮いたように光って見えるのである。もちろん、子供の幼稚な悪戯《いたずら》に過ぎないので、それに驚かされる者は少ないのであるが、気の弱い娘子供などは、やはりこの「お化け」を恐れ嫌った。怪しい蝶が闇夜に光るのは、それに類似の手段を用いたのであろうと、吉五郎はひそかに想像していたのであった。
「そうかも知れませんね」と、留吉もうなずいた。「さもなけりゃあ、寒い時節に蝶々の飛び出す筈がありませんからね」
「そこで、その蝶々がどうして飛ぶか……。拵え物を飛ばせる以上、誰か糸を引く奴がなけりゃあならねえ。おれがだんだん調べてみると、その蝶々が飛び出すのは風の吹く晩に限っているらしい。そうなると、いよいよ怪しい。といって、小さい蝶々を飛ばせるには、どんな糸を使うのか、それとも何かの機関《からくり》仕掛けにでもなっているのか。おれは上野の烏凧《からすだこ》から考えて、多分この菅糸を使うんだろうと鑑定していた。おめえも知っているだろう。花どきになると、上野じゃあ菅糸の凧を売っている。薄黒いから烏凧というのだ。あの凧は紙が薄い上に、糸が極細《ごくぼそ》の菅糸だから風のない日でもよくあがる。今度の蝶々にも菅糸をつけて、風の吹く晩に飛ばせるんだろう。そうして、暗い晩を狙ってやりゃあ自分の姿はみえねえ、蝶々だけが光る……。まあ、こんな手妻《てづま》だろうと思っていた。ところが案の通り、ゆうべの蝶々には菅糸が付いていた。おめえも寺の庭で菅糸を拾った。万事が符合する以上は、もう間違いはあるめえ。蝶々の正体は大抵判ったと云うものだ」
「そうです、そうです」と、留吉は又うなずいた。「成程、親分の云う通り、お化けと烏凧で、手妻の種はすっかり判った。ところで、それを使う奴は……」
「お冬という奴だろう」
「なぜそんな事をするんでしょう。唯の悪戯《いたずら》でもあるめえが……」
「唯のいたずらじゃあねえに決まっている。それにはお冬を使って、何かの仕事を目論《もくろ》んでいる奴があるに相違ねえ。誰かがお冬の糸を引いて、お冬がまた蝶々の糸をひくと云うわけだから、順々に手繰《たぐ》って行かなけりゃあ本家本元は判らねえ。それにしても、ここまで漕ぎ付けりゃあ大抵の山は見えているよ」と、吉五郎は笑っていた。
「そうすると、お冬はゆうべ又あの寺へ舞い戻って来たんでしょうか」と、留吉はまた訊いた。
「そうのようにも思われる。そうでねえようにも思われる。おれもそれを考えているんだが……」
「でも、その菅糸が落ちていたんですよ」
「この一件はお冬ばかりじゃあねえ。大勢の奴らが係り合っているらしいから、糸屑だけでお冬とも一途《いちず》に決められねえ」と、吉五郎はまだ考えていた。「だが、まあ、今の話はこれだけにしよう。来たついでと云っちゃあ済まねえが、不動さまにお詣りをして別れようぜ」
二人は本堂の方へ足を向けた。
一二
親分と子分は不動堂の門前で別れて、留吉を乗せた駕籠は神田へ帰った。吉五郎は頬かむりをして音羽の大通りへ出ると、水引屋の市川屋の店さきに、子分の兼松が人待ち顔に腰をかけていた。彼は親分のすがたを見つけて、小走りに寄って来た。
「もし、面白いことがありそうですよ」
「むむ、どんなことだ」
兼松は振り返って小手招ぎをすると、店から職人の源蔵が出て来た。吉五郎に引き合わされて、彼は丁寧に会釈《えしゃく》した。
「わたくしは市川屋の職人で源蔵と申します。なにぶんお見識り置きを……」
「わたしも今後よろしく願います。そこで、兼。この源蔵さんという人に何か手伝って貰うことでもあるのかえ」と、吉五郎は訊いた。
「実はね」と、兼松は声をひくめた。「この源蔵がゆうべ変なことを見たと云うんです」
「なにを見たね」
吉五郎は職人の方へ向き直ると、源蔵も小声で話し出した。
「実は昨晩、高田の四家町《よつやまち》まで参りまして、その帰り途に目白坂の下まで参りますと、寺の生垣《いけがき》の前に男と女が立ち話をして居りましたが、わたくしの提灯の火を見ると、二人ともに慌てて寺のなかへ隠れてしまいました。夜目遠目《よめとおめ》で確かなことは申されませんが、男は火の番の藤助で、女はむすめのお冬のように思われたのでございます。お冬はともあれ、このあいだから行くえ知れずになっている藤助がこの辺にうろ付いていて、往来なかで娘と立ち話をしているのは何だか変だと思いましたが、その時はそれぎりにして帰ってまいりました。そこで、念のために今朝ほどお冬の家《うち》へ行ってみますと、お冬は留守でございました。もちろん、藤助のすがたも見えず、家はがら明きになって居りました」
「それは宵のことかえ」
「左様でございます。まだ五ツ(午後八時)にはならない頃でございました」
「それから、もう一つのことも話してしまいねえ」と、兼松は催促した。
「へえ」と、源蔵はやや当惑らしい顔色をみせたが、やがて思い切って又云い出した。
「わたくしももう五十で、年のせいでございましょうか、若い人たちのようにはどうも眠られません。昨晩も風の音が耳につきましておちおちと眠られずに居りますと、なんでも夜なかの事でございました。表で頻りに犬の吠える声がきこえるのでございます」
「むむ」と、吉五郎もそのあとを催促するように相手の顔をみつめた。
「夜なかに犬の吠えるのは珍らしくもございませんが、あんまり烈しく啼《な》きますので、わたくしも何だか気味が悪くなりまして、そっと起きて店へ出まして、雨戸の節穴から覗いてみますと、表は真っ暗でなんにも見えませんでしたが、犬の吠えているのは隣りの店のまえで、その犬の声にまじって人の声が聞こえるのでございます。低い声ですからよく判りませんが、ふたりで話しているらしいので……」
「男の声かえ、女の声かえ」
「どっちも男の声のようで……」
「その男が何を話していたえ」
「それがはっきりと判りませんでしたが……。ひとりがなぜ寺へ埋《う》めないのだと云っていたようでございました」
「その声に聞き覚えはなかったかね」
「何分はっきりとは聞き取れませんので……」
「それから其の二人はどうしたね」
「やがて何処へか行ってし
前へ
次へ
全17ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング