めいた事など話した場合、あたまから叱り飛ばされるのは知れ切っていた。
お勝の母の話によると、このごろ夜が更けると怪しい蝶が飛びあるく。それはお勝らが見たのと同じように、普通の物よりやや大きい白い蝶で、それが舞い込んだ家には必ず何かのわざわいがある。多くは死人を出すと云うのである。
「お母さまがどうしてそんな事を御存じなのでしょう」と、お北は又|訊《き》いた。[#「。」は底本では「、」]
「それはね」と、お勝は更に説明した。「四、五日前に白魚河岸《しらうおがし》のおじさんが御年始にきた時に、お母さまに話したので……。八丁堀でも内々|探索《たんさく》しているのだそうです」
白魚河岸のおじさんと云うのは黒沼の親類で、姓を吉田といい、白魚の御納屋《おなや》に勤めている。吉田は土地の近い関係から、八丁堀同心らとも知合いが多いので、その同心の或る者から白い蝶の秘密を洩れ聞いたらしい。してみると、まんざら無根の流言《りゅうげん》とも云えないのであるが、伝兵衛は飽くまでもそれを否認していた。彼はこんなことまで云った。
「白魚河岸がそんな出たらめを云うのか。さもなければ、この頃はお膝元が太平で、八丁堀の奴らも閑《ひま》で困るもんだから、そんな、詰まらない事を云い触らして、忙がしそうな顔をしているのだ。ばかばかしい」
こう一と口に云ってしまえばそれ迄であるが、白魚河岸のおじさんは嘘を云うような人ではない。八丁堀の人たちが幾ら閑《ひま》だからといって、根も葉もないことに騒ぎ立てるはずもあるまいと、お勝の母は夫に叱られながらも、内心はそれを信じていた。
その矢さきに、お勝が現在その白い蝶の飛ぶ姿を見たと云うのであるから、母はいよいよそれを信じないわけには行かなくなった。
「それですから当分は夜歩きをしない方がいいと、お母さまは云っているのですよ」と、お勝はさらに付け加えた。
二
門前の掃除を仕舞ってお北はわが家へはいったが、今のお勝の話がなんとなく気にかかって、彼女は暗い心持になった。
お勝の父がいかにそれを否認しても、白い蝶の怪異はまんざら跡方のないことでも無いように思われた。
ことに妹のお年がゆうべの夢にうなされて、姉が白い蝶に化して飛び去ろうとしたと云う話が、また今更のように思い合わされて、お北は一種の恐怖を感じないわけには行かなかった。白い蝶と自分とのあいだに、何かの因縁が結び付けられているのではないかとも恐れられた。しかもそれを母や弟に打ちあけるのを憚《はばか》って、彼女はやはり黙って朝飯の膳にむかった。
「お前はゆうべからどうも顔の色が悪いようだが、まったく風邪《かぜ》でも引いたのじゃあないか」と、母のお由は再び訊いた。
「いいえ、別に……」と、お北はゆうべと同じような返事をしていたが、自分でも少し悪寒《さむけ》がするように感じられてきた。気のせいか、蟀谷《こめかみ》もだんだん痛み出した。
弟の長三郎は朝飯の箸をおくと、すぐに剣術の稽古に出て行った。四ツ(午前十時)頃に、父の長八は交代で帰ってきたが、これも娘の顔をみて眉をよせた。
「お北、おまえは顔色がよくないようだぞ。風邪でも引いたか」
父からも母からも風邪引きに決められてしまった。お北はとうとう寝床にはいることになった。下女のお秋は音羽の通りまで風邪薬を買いに出た。
お北は実際すこし熱があるとみえて、床にはいると直ぐにうとうとと眠ったが、やがて又眼がさめると、茶の間でお秋が何事をか話している声がきこえた。お秋が小声で母と語っているのであるが、襖ひとえの隣りであるから、寝ているお北の耳にも大抵のことは洩れきこえた。
「わたくしが薬屋へまいりますと、丁度お隣りのお安さんもお薬を買いに来ていまして、お隣りのお勝さんもやはり寝ておいでなさるそうで……」
「じゃあ、どっちも夜ふかしをして風邪を引いたのだね」と、お由は云った。
「いいえ、それがおかしいので……」
お秋は更に声を低めたが、とぎれとぎれに聞こえる話の様子では、かの白い蝶の一件について訴えているらしい。いずれにしても、お勝も床に就いたのである。
「まあ、そんなことがあったのかえ。お北はなんにも云わないので、わたしはちっとも知らなかったが……」と、お由は不安らしく云った。「そうすると、お勝さんもお北も唯の風邪じゃあ無いのかしら」
それから後は又もや声が低くなったが、やがてお秋が台所へさがり、お由は立って父の居間へ行ったらしかった。そのうちに、お北は又うとうとと眠ってしまったので、その後のことは知らなかったが、ふたたび眼をさますと、もう日が暮れていた。
このごろの癖で、夕方から又もや寒い風が吹き出したらしく、どこかの隙間から洩れて来る夜の風が枕もとの行燈《あんどう》の火を時々に揺らめかしていた。
お北が枕から顔をあげると、行燈の下には母のお由がやはり不安らしい眼色をして、娘の寝顔を窺うように坐っていた。
「どうだえ、心持は……」と、お由はすぐに訊いた。「少しは汗が取れましたかえ」
云われて気がつくと、お北の寝巻は汗でぐっしょりと濡れていた。母は手伝って寝巻を着かえさせて、娘をふたたび枕に就かせたが、十分に汗を取ったせいか、お北の頭は軽くなったように思われた。それを聴いて、お由はやや安心したようにうなずいたが、やがて又ささやくように話し出した。
「それはまあ好かった。実はわたしも内々心配していたんだよ。どうも唯の風邪でも無いらしいからね。おまえの寝ているあいだに、お隣りの黒沼の小父さんが来て……」
「お勝さんも悪いんですってね」と、お北も低い声で云った。
「けさまでは何ともなかったのだが、お午《ひる》ごろから悪くなって、やっぱりお前と同じように、風邪でも引いたような工合《ぐあい》で寝込んでしまったのだが、それには仔細《しさい》があるらしいと云うので、黒沼の小父さんが家《うち》へ聞き合わせに来なすったのだよ。ゆうべの歌留多の帰りに、目白下のお寺の前で、白い蝶々を見たと云うが、それは本当かと云うことだったが、お前も病気で寝ているから、あとで好く訊いておくと返事をして置いたのさ。そうすると黒沼の小父さんは、それでは又来ると云って出て行ったが、その足で音羽の通りへ出て、あの水引屋の……市川屋の店へ行って、職人の源蔵に逢って、何かいろいろ詮議をした末に、源蔵を案内者にして、お寺の方まで行ったのだとさ」
黒沼伝兵衛は娘の病気から白い蝶の一件を聞き出したが、元来そういうたぐいの怪談を信じない彼は、一応その虚実を詮議するために、そのとき一緒に道連れになったと云う市川屋の源蔵をたずねたのである。その結果を早く知りたいので、お北は忙がわしく訊いた。
「それからどうして……」
「あの小父《おじ》さんのことだからね」とお由は少しく笑顔を見せた。「なんでも源蔵を叱るように追いまわして、その蝶々を見たのはどの辺かということを厳重に調べたらしい。蝶々は生垣をくぐってお寺の墓場へ飛んで行ったと云うので、今度はお寺へはいって墓場を一々見てあるいたが、別にこれぞという手がかりも無く、蝶々の死骸らしい物も見付からなかったそうだよ。それでもまだ気が済まないと見えて、黒沼の小父さんはお寺の玄関へまわって、坊さんにも逢って、白い蝶々について何か心あたりはないかと聞き合わせてみたが、お寺の方ではなんにも知らないと云うので、とうとう思い切って引き揚げてきたそうだが……。なにしろ不思議なこともあるものさね。おまえも本当にその蝶々を見たのかえ」
もう隠してもいられなくなって、お北はゆうべの一件を母に打ち明けると、お由の顔はまた陰《くも》った。若い娘たちが夜ふかしをして、夜道をあるいて、ふたりが同時に風邪を引いた。――そんなことは一向にめずらしく無いのであるが、それに怪しい蝶の一件が絡《から》んでいるだけに、二人の病気には何かの因縁があるように思われないでもなかった。
「家《うち》のお父さまはね」と、お由は又云った。「ああいう人だから、今度のことについて別に嘘だとも本当だとも云わないけれど、わたしはなんだか気になって……。もしやお前が悪くでもなっては大変だと、内々案じていたのだが、この分じゃ仔細も無さそうだ。それにしても、お勝さんの見舞ながらお隣りへ行って、おまえも確かにその蝶々を見たと云うことを、小父さんに話して来なければなるまい。わたしはこれからちょっと行って来ますよ」
お由は有り合わせの菓子折か何かを持って、直ぐに隣りへ出て行った。その留守に、お北は妹を枕もとへ呼んで、ゆうべの夢のことに就いて更に詮議すると、お年は確かに姉さんが白い蝶々になった夢をみたと云った。子供の夢ばなしなど、ふだんは殆ど問題にもならないのであるが、今のお北に取っては何かの意味ありげにも考えられた。彼女はなんだか薄気味悪くなって、この部屋のどこかに蝶の白い影が迷っているのでは無いかと、寝ながらに部屋の隅々を見まわした。
半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]ばかりの後に、お由は帰って来て、娘の枕もとで又こんな事をささやいた。
「おまえとは違って、お勝さんはどうも容態《ようだい》がよくないようで、丁度お医者を呼んで来たところさ。お医者は質《たち》の悪い風邪だと云ったそうだけれど、小父さんはよっぽど心配しているようだったよ」
「小父さんは何と云っているのです」
「黒沼の小父さんはまだ本当にはしていないらしいのだがね。それでも自分の娘が悪くなったし、お前も確かにその蝶々を見たと云うのだから、少し不思議そうに考えているようだったが……。黒沼の小父さんの話では、それがもう町方《まちかた》の耳にもはいって、内々で探索をしていると云うことだから、嘘か本当かは自然に判るだろうけれど……。まあ当分は日が暮れてから外へ出ないに限りますよ。姉さんばかりじゃない、お年も気をおつけなさい」
娘たちを戒《いまし》めて、その晩は早く寝床に就いたが、表に風の音がきこえるばかりで、ここの家には何事もなかった。明くる朝はお北の気分もいよいよ好くなったが、それでも用心してもう一日寝ていることにしたので、弟の長三郎が代って門前を掃きに出ると、となりの黒沼には男の子がないので、下女のお安が門前を掃いていた。
ここで長三郎は、お安の口から更に不思議なことを聞かされた。
ゆうべの夜なかに、病人のお勝が苦しそうに唸《うな》り声をあげたので、父の伝兵衛が起きて行ってうかがうと、お勝の部屋には燈火《あかり》を消してあって、一面に暗いなかに小さい白い影が浮いて見えた。それは白い蝶である。蝶は羽《はね》をやすめてお勝の衾《よぎ》の上に止まっている。伝兵衛は床の間の刀を取って引っ返して来て、まずその蝶を逐《お》おうとしたが、蝶はやはり動かない。伝兵衛は刀の鞘のままで横に払うと、蝶はひらひらと飛んで自分の寝巻の胸にはいった。
伝兵衛は妻のお富をよびおこして手燭をともさせ、寝巻を払ってあらためたが、どこにも蝶の影は見えなかった。あなたの眼のせいでしょうとは云ったが、お富も一種の不安を感じないでもなかった。お勝をゆりおこして訊《き》いてみたが、お勝は別におそろしい夢に魘《うな》されたのでも無く、唯うとうとと眠っていて何事も知らないと云った。
話は単にそれだけのことで、しょせんは伝兵衛の眼の迷いと云うことに帰着してしまったのであるが、場合が場合であるだけに、どの人の胸にも消えやらない疑いが残っていた。臆病なお安は頭から衾《よぎ》を引っかぶって夜の明けるまでおちおちとは眠られなかった。
「黒沼の小父さんも年を取ったな」と、長三郎はその話を聴きながら、肚《はら》のなかで笑った。
ふだんはそんな怪談をあたまから蹴散らしていながら、いざとなれば心の迷いからそんな怪しみを見るのである。年を取ったと云っても、四十を越してまだ間もないのに、人間はそんなにも弱くなるものかなどとも考えた。
「そんなことは誰にも話さない方がいい。わたしも黙っているから」と、長三郎はお安に注意するように云った。
「ええ。誰にも云っち
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