うちに、お冬はなんの音を聞いたのか、俄かにうしろを見返ったかと思うと、長三郎のそばを颯《さっ》と離れて、橋を南へむかって飛鳥のごとくに駈け去った。取り残された長三郎は呆気《あっけ》に取られて、再びそれを追い捕える気力もなく、唯ぼんやりと其のゆくえを眺めていると、やがて草履の音が北の方から近づいて、頬かむりをした男がうしろから彼に声をかけた。
「あなたはあの女とお知合いでございますか」
相手が何者か判らないので、長三郎は突っ立ったまま睨んでいると、男は頬かむりの手拭を取って丁寧に会釈《えしゃく》した。
「わたくしは神田の三河町に居りまして、お上《かみ》の御用を勤めている吉五郎という者でございます。失礼ながらあなたは……」
長三郎も黙っていられなくなった。
「わたしは音羽の御賄屋敷にいる瓜生長三郎……」
「はあ、瓜生さんの御子息でございましたか」
丁度いい人に出逢ったと云うように、吉五郎は馴れなれしく摺り寄って来た。
「あの女は音羽の火の番の娘じゃございませんか」
長三郎はうなずいた。
「御近所ですから、前から御存じなんでしょうな」と、吉五郎はまた訊いた。
「知っています」
「そこで、くどくおたずね申すようですが、今ここでどんなお話をなすったんでしょう。いや、こんなことを申し上げてはたいへん失礼でございますが、これも御用とおぼしめして御勘弁をねがいます。実は先刻あの女を取り押さえて、少々取り調べて居ります処へ、思いもよらない邪魔がはいりまして……」
云いかけた時に、強い南風《みなみ》が又もやどっと吹き寄せて来て、二人の顔をそむけさせたが、その風のなかで何を見付けたのか、吉五郎はあわててふた足三足かけ出した。一羽の白い蝶が風に吹き揚げられたように、地を離れてひらひらと空を舞って行くのである。長三郎もそれを見つけて、思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声をあげた。
「若旦那。つかまえて下さい」
吉五郎はすぐに蝶を追った。長三郎も一緒に追った。しかも、あいにくに強い風が又吹き付けたので、蝶は橋の上から斜めに飛んで、川の上に吹きやられてしまった。
「水に落ちたかな」と、長三郎は提灯をかざしながら、残念そうに云った。
「そうでしょう。川の方へ吹き飛ばされちゃあ仕様がありません」と、吉五郎も残念そうに水の上を覗いていた。「しかし若旦那。あなたは何か御覧になりませんでしたか」
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