ず声をかけると、お冬はこちらを屹《きっ》と見たが、忽ちに身をひるがえして元来た方へ逃げ去ろうとした。その挙動が怪しいので、長三郎は直ぐに追いかけた。追い捕えてどうするという考えもなかったが、自分を見て慌てて逃げようとする彼女の挙動が、いかにも胡乱《うろん》に思われたからであった。
疲れているらしいお冬は遠く逃げ去るひまも無しに、追って来る長三郎に帯ぎわをつかんで引き戻された。そのはずみに、彼女はよろめいて倒れた。
「なぜ逃げる。わたしを見て、なぜ逃げるのだ」と、長三郎は声を鋭くして訊いた。
お冬は黙っていた。
「お前はこれから何処へ行くのだ」
長三郎はかさねて詰問しながら提灯の火に照らして見ると、お冬は右の足に草履を穿《は》いて、左足は素足であった。片眼の女、片足の草履、それが何かの因縁でもあるように、長三郎の注意をひいた。
「おまえは片足が跣足《はだし》だな。草履をどうした」
お冬は黙っていた。
先日、水引屋の職人と一緒に藤助の家をたずねた時にも、お冬は始終無言であったが、今夜もやはり無言をつづけているので、長三郎はすこしく焦《じ》れた。
「え、なぜ返事をしないのだ。おまえは何か悪いことでもしたのか」
長三郎はその腕をつかんで軽く揺り動かすと、お冬は地に坐ったままで男の手さきをしっかりと握った。
前髪立ちとはいいながら、長三郎も十五歳である。殊に今の人間とは違って、その時代の人はすべて早熟である。若い女に、自分の手を強く握られて、長三郎の頬はおのずと熱《ほて》るように感じられた。
彼はその手を振り払いもせずに暫く躊躇していると、お冬はいよいよ摺り寄ってささやいた。
「若旦那……。あなたこそ何処へお出ででした」
今度は長三郎の方が黙ってしまった。
「あなたは誰かを探して歩いているんじゃございませんか」
星をさされて、長三郎はなんだか薄気味悪くもなった。
この女はどうして自分の秘密の役目を知っているのであろう。もう一つには、今頃こんな取り乱したような姿をして、どうしてここらを徘徊しているのであろう。彼は謎のような女に手を握られたままで、やはり暫くは黙っていた。
一〇
お冬は長三郎の手を固く握ったままで、更にささやいた。
「あなたの探している人は見付かりましたか」
なんと答えようかと長三郎はまた躊躇したが、結局思い切って正直に云っ
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