吉五郎は職人の方へ向き直ると、源蔵も小声で話し出した。
「実は昨晩、高田の四家町《よつやまち》まで参りまして、その帰り途に目白坂の下まで参りますと、寺の生垣《いけがき》の前に男と女が立ち話をして居りましたが、わたくしの提灯の火を見ると、二人ともに慌てて寺のなかへ隠れてしまいました。夜目遠目《よめとおめ》で確かなことは申されませんが、男は火の番の藤助で、女はむすめのお冬のように思われたのでございます。お冬はともあれ、このあいだから行くえ知れずになっている藤助がこの辺にうろ付いていて、往来なかで娘と立ち話をしているのは何だか変だと思いましたが、その時はそれぎりにして帰ってまいりました。そこで、念のために今朝ほどお冬の家《うち》へ行ってみますと、お冬は留守でございました。もちろん、藤助のすがたも見えず、家はがら明きになって居りました」
「それは宵のことかえ」
「左様でございます。まだ五ツ(午後八時)にはならない頃でございました」
「それから、もう一つのことも話してしまいねえ」と、兼松は催促した。
「へえ」と、源蔵はやや当惑らしい顔色をみせたが、やがて思い切って又云い出した。
「わたくしももう五十で、年のせいでございましょうか、若い人たちのようにはどうも眠られません。昨晩も風の音が耳につきましておちおちと眠られずに居りますと、なんでも夜なかの事でございました。表で頻りに犬の吠える声がきこえるのでございます」
「むむ」と、吉五郎もそのあとを催促するように相手の顔をみつめた。
「夜なかに犬の吠えるのは珍らしくもございませんが、あんまり烈しく啼《な》きますので、わたくしも何だか気味が悪くなりまして、そっと起きて店へ出まして、雨戸の節穴から覗いてみますと、表は真っ暗でなんにも見えませんでしたが、犬の吠えているのは隣りの店のまえで、その犬の声にまじって人の声が聞こえるのでございます。低い声ですからよく判りませんが、ふたりで話しているらしいので……」
「男の声かえ、女の声かえ」
「どっちも男の声のようで……」
「その男が何を話していたえ」
「それがはっきりと判りませんでしたが……。ひとりがなぜ寺へ埋《う》めないのだと云っていたようでございました」
「その声に聞き覚えはなかったかね」
「何分はっきりとは聞き取れませんので……」
「それから其の二人はどうしたね」
「やがて何処へか行ってし
前へ
次へ
全83ページ中60ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング