幾たびか休んで、のん気に又ぶらぶら歩いて行く。それを保養と心得ていたのですよ。はははははは」
「しかしそれが本当の保養でしょう。今日のように、汽車に乗るにも気違いのような騒ぎじゃあ、遊びに行くのか、苦しみに行くのか判りません。どう考えても、ほんとうの花見は昔のことでしょうね。そこで、その時には別に変ったお話もありませんでしたか」
「ありましたよ」と、老人は又笑った。「犬もあるけば棒にあたると云いますが、わたくし共が出あるくと不思議に何かにぶつかるのですね。その時も小金井までは道中無事、小金井橋の近所で午飯《ひるめし》を食ってそこらの花をゆっくり見物して、ここでお泊まりにしてしまえば、まあ無事だったわけですが、どうせ泊まるなら府中の宿《しゅく》まで伸《の》そうと云うことになって、いずれも足の達者な奴らが揃っているので、畑のあいだの道を縫って甲州街道へ出て、小金井からおよそ一里半、府中の宿へ行き着いて、宿の中ほどの柏屋という宿屋にはいりましたが、まだ日が高いので、六所《ろくしょ》明神へ参詣ということになりました。闇祭りで有名の六所明神、ここへ来た以上は、一度参詣をしなければならないというわけです。あなたはお参りをなすった事がありますか」
「いいえ、小金井には学校時代に一度遠足に行った事があるだけで、府中は知りません」
「それでは少し説明をして置かなければならない。と云うのは、社《やしろ》の入口から随身門までおよそ一丁半、路の左右は松と杉の森で、四抱えも五抱えもあるような大木が天を凌《しの》いで生い茂っています。その森の梢にはたくさんの鷺《さぎ》や鵜《う》が棲んでいるが、寒《かん》三十日のあいだは皆んな何処へか立ち去って、寒が明けると又帰って来る。それが年々一日も違わないので、ここでは七不思議の一つと云われています。そこで、その鷺や鵜は品川の海や多摩川のあたりまで飛んで行って、いろいろの魚《さかな》をくわえて来るが、時にはあやまって其の魚を木の上から落とすことがある。土地の女子供はそれを見つけて拾って来る。ここらは海の遠い所ですが、鳥のおかげで、案外に海魚《うみうお》の新らしいのを拾うことが出来ると云うのは、何が仕合わせになるか判りません。早く云えば天から魚が降って来るようなわけで……」
「おもしろい話ですね。今でもそうでしょうか」
「さあ、今はどうだか知りませんが、昔は
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