更けにお俊の家へ忍び込みましたが、誰もいないので空しく引っ返しました。隣りの駒吉が格子の音を聞いたのは此の時でしょう。それからお俊の切り首を風呂敷につつんで万力が引っかかえ、碁盤を黒松に持たせて、ふたたび自分の家を忍んで出ました。
 最初は銀之助の屋敷の前へ置いて来るつもりで、深川の籾蔵前まで行ったのですが、その屋敷はたった一度見ただけで、しかも闇の晩なので、同じような屋敷が幾軒も列んでいると、どれが大瀬の屋敷だか判らなくなってしまいました。迂闊に門《かど》違いをしては、他人の迷惑になると思ったので、万力は又引っ返して本所へ行って、小栗の屋敷の前に置いて来たという訳で……。まあ、次男の恨みを本家に報いた形です。悪い弟を持った為に、本家は飛んだ迷惑、思えば気の毒でした」
「そうすると、黒松という弟子も共犯ですね」
「師匠の指図で忌《いや》とも云えなかったのでしょう。万力は幾らかの金を持たせて、夜の明けないうちに黒松を逃がしてやりました。黒松の故郷は遠州掛川在ですから、念のために問い合わせましたが、そこにも姿を見せない。多分|上方《かみがた》へでも行ったのだろうと云うことで、とうとうゆくえ知れずになってしまいました。黒松なんぞは名も知れない取的ですから、別に問題にもなりませんが、万力は二段目の売出しですから、この噂が伝わると世間では驚きました。
 銀之助に対する恨みがまじっているとは云いながら、万力がお俊を殺したのは我が身の慾でもなく、色恋でもなく、旦那に対する忠義の心から出たことですから、自然に世間の同情も集まるというわけでした。この前年、即ち文久二年の四月にも相撲の人殺しがありました。これは不動山と殿《しんがり》の二人が同じ力士の小柳平助を斬り殺して自首した一件で、その噂の消えないうちに、又もや万力の事件が出来《しゅったい》したので、いよいよその噂が高くなったのでした」
「そこで、問題のあばたはどういうことになりました」
「前にも申す通り、わたくし共の商売には感が働きます」と、老人は笑った。「そのなかには飛んだ感違いもあるのですが、このときは巧く働きました。あばたが無かろうが有ろうが、女はどうしてもお俊らしいと、わたくしは最初から睨んでいましたが、やっぱりそうでした。お俊には薄あばたがあったのですが、それを白粉で上手に塗り隠していたのです。あとで聞くと、お俊は身嗜《
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