に出て来ましたそうで……。それが五日の日から行方《ゆくえ》が知れなくなりました」
「番太郎の兄貴の家にいたのですね」
「そうでございます。兄を頼って来ましたので、要作から手前どもに話がありまして、こちらのお店で使ってくれないかという事でしたから、ともかくも主人に相談してみようと返事をして置きますと、その本人がすぐに姿を隠してしまいましたので、兄の要作もひどく心配して居ります」
「お前さんはその次郎兵衛という男に逢いましたかえ」と、半七は訊《き》いた。
「表向きに名乗り合いは致しませんが、番太郎の店にいるのをちらりと見たことがございます。年は十九だそうですが、色のあさ黒い、眼鼻立ちのきりりとした、田舎者らしくない男で、あれなら役に立ちそうだと思って居りましたが……」
「国へ帰ったという知らせも無いのですか」
「知らせも無いそうです。尤も要作夫婦も忙がしい体ですから、ただ心配するばかりで、別に聞き合わせてやると云うこともしないようですが……」
その以上のことは番頭も知らないらしかった。しかしそれだけの事を偶然に聞き出したのは、意外の掘出し物である。江戸城へはいりこんだ本人は川越の次郎兵衛でなく、宇都宮の粂次郎であるらしいが、いずれにしても笠の持ち主を見つけ出せば、それからひいて其の本人を突き留めることも出来る。半七はよろこんで万屋の店を出た。
四月になって、番太郎の店でも焼芋を売らなくなった。駄菓子とちっとばかりの荒物をならべている店のまえに立つと、要作は町内の使で何処へか出たらしく、女房のお霜が店番をしていた。それを横目に見ながら、半七は隣りの自身番へはいると、定番《じょうばん》の五平があわてて挨拶した。
「早速だが、ここの番太の夫婦はどんな人間ですね。川越の生まれだそうですが……」
「へえ」と、五平は俄かに顔を曇らせた。「なにかのお調べですか」
「御用だ。正直に云ってくれ」
「要作は三十一で、女房のお霜はたしか二十八だと思います。川越の者に相違ございません」
「要作には次郎兵衛という弟があるそうだね」
「要作の弟ではございません。女房の弟だと聞いていますが……」と、五平はいよいよ迷惑そうな顔をしていた。
自身番の者も城中の一件を知っているのである。川越の次郎兵衛のことも知っているらしい。しかもそれが番太郎の親類縁者であるということが発覚すると、その時代の習いとして一町内が種々の迷惑を蒙《こうむ》るおそれがあるので、努めてそれを秘密にしているのであろうと、半七は推量した。
「いや、心配する事はあるめえ」と、半七は笑いながら云った。「お城の一件は次郎兵衛じゃあねえらしい」
「でも、笠に書いてあったという噂で……」と、五平は釣り込まれて口をすべらせた。
「笠は次郎兵衛の物だろうが、その本人じゃあねえようだ。第一に年頃が違っている。誰かが次郎兵衛の笠を持っていたらしい。そうと決まれば別に心配することはねえ、せいぜい叱られるぐらいの事で済むわけだ」
「そうでしょうね」と、五平もやや安心したようにうなずいた。「しかし親分、その次郎兵衛のゆくえが知れないので心配しているのです」
「むむ、そうだ」と、半七もうなずいた。「ここへ次郎兵衛が出て来て、その笠は誰に貸したとか、どこで取られたとか、はっきり云ってくれれば論はねえのだが、ゆくえが知れねえには困ったな。なんにも心あたりはねえのかえ」
「番太の夫婦も心あたりがないと云っています。なにしろ八年も逢わずにいた者が不意に出て来て、また不意に消えてしまったのですから、まったく天狗にでも攫われたようなもんで、なにが何だか判らないそうです。成程そうかも知れません」
「十九といえば、もう立派な若けえ者だ。いくら江戸馴れねえからと云って、まさかに迷子《まいご》になりもしめえ。たとい迷子になっても、今まで帰らねえという理窟はねえ。なにか姉夫婦と喧嘩でもして、飛び出したのじゃあねえか」
「いや、それですよ。要作は隠していますが、女房がちょいと話したところでは、次郎兵衛は義理の兄とすこし折りが合わない事があったようです。本人は江戸へ出て、武家奉公でもするつもりであったらしいのを、要作が承知しない。おまえ達が武家に奉公すると云えば先ず中間《ちゅうげん》だが、あんな折助《おりすけ》の仲間にはいってどうする。奉公をするならば、堅気の商人《あきんど》の店へはいって辛抱しろと云う。それが又、次郎兵衛の気に入らないので、そこに何かの捫著《もんちゃく》があったようですから、若い者の向う見ずに何処へか立ち去ってしまったのかも知れません。しかし江戸にはこれぞという知りびとも無し、本人も初めて出て来たのですから、ほかに頼って行くさきも無い筈だと云います。そのうちにお城の一件が知れたので、要作夫婦は蒼《あお》くなって、どうぞ自分たちに難儀のかからないようにと、神信心や仏参りをして、可哀そうなくらいに心配しています。あの夫婦はこの町内に八年も勤め通して、何ひとつ不始末を働いたこともないのに、飛んだ弟がだしぬけに出て来て、まかり間違えばどんな巻き添えを受けないとも限らないので、わたし達も共々心配しているのですが……」
五平は同情するように云った。
「そりゃあ本当に可哀そうだ」と、半七も顔をしかめた。「だが、今も云う通り、次郎兵衛は笠だけの事らしいから、あんまり心配しねえがいいと、番太の夫婦にも云い聞かせて置くがよかろう」
「そうすると、次郎兵衛には係り合いが無くって、唯その笠を誰かに持って行かれたと云うだけの事なのでしょうか。それが本当なら、要作も女房もどんなに喜ぶかも知れません。そこで親分。実はまだこんな事もあるのですが……」と、五平は表を窺いながらささやいた。「日は忘れましたが、なんでも先月末だと思います。わたしがこの店の先きに出ていると、年頃は三十四五の小粋な年増が来かかって、隣りの店を指さして、あれが番太の要作さんの家《うち》かと訊きますから、わたしはそうだと教えてやると、女は外から様子を窺っていて、やがて店へはいって行きました、あんな女が番太をたずねて来るのも珍らしいと思って、わたしもそっとの覗《のぞ》いていると、女房が何か応答しているようでしたが、それがだんだんに喧嘩腰のようになって、なにを云っているのか好く判りませんでしたが、まあ、叩き出すようなふうで、その女を追い帰してしまいました。あとで女房に訊きますと、あれは門《かど》違いで尋ねて来たのだから、そのわけを云って帰したと云っていましたが、どうもそうじゃあ無いようで……。今まであんな女を見たことはありませんから、もしや次郎兵衛の係り合いじゃあ無いかとも思うのですが……。はっきり聞こえませんでしたが、その女も女房も次郎兵衛という名を云っていたように思います」
「その女は、江戸者かえ、他国者かえ」と、半七は訊いた。
「江戸ですね。いや、それに就いてまだお話があります。その晩、もうすっかり暮れ切ってしまってから、十七八の娘がまた隣りへ尋ねて来ました。私はそのとき奥で夕飯を食っていましたが、手伝いの三吉の話では、これも女房に叱られて追い出されたそうです。容貌《きりょう》は悪くないが、丸出しの田舎娘で、泣きそうな顔をして出て行ったそうで……。これも隣りの女房はわたし達に隠しているので、詳しいことは判りません」
こうなると、どうしても隣りの女房を一応詮議するのが当然の順序である。
「じゃあ、番太の女房を呼んでくれ」と、半七は云った。
三
五平に連れられて、番太郎の女房が来た。お霜は二十七八で、眼鼻立ちも醜《みにく》くなく、見るからかいがいしそうな女であった。彼女は半七を御用聞きと知って、あがり口の板の間にかしこまった。
「いや、そんなに行儀好くするにゃあ及ばねえ」と、半七は頤《あご》で招いた。「まあ、ここへ掛けて、仲好く話そうじゃあねえか」
「親分に訊かれたことは、なんでも正直に云うのだぜ」と、五平もそばから注意した。
「次郎兵衛はおめえの弟で、川越から江戸へ奉公に出て来たのだね」と、半七は訊いた。「それが三月の三日に来て、五日からゆくえが知れなくなったと云うのは本当かえ」
「はい。五日の夕方にどこへかふらりと出て行きました、それぎり音も沙汰もございません」と、お霜は答えた。
五平の話したとおり、本人は屋敷奉公をしたいと云い、要作は町奉公をしろと云い、その衝突から飛び出したのであろうと、彼女は云った。しかし弟は年も若し、初めて江戸へ出て来たのであるから、むやみに家を飛び出しても、ほかに頼るさきはない筈である。さりとて故郷へ帰ったとも思われず、どうしているか案じられてならないと、彼女は苦労ありそうに云った。
番太郎へたずねて来た二人の女に就いて、彼女はこう説明した。
「三月二十八日のお午《ひる》過ぎでございました。浅草の者だと云って、粋な風体《ふうてい》の年増の人が見えまして、次郎兵衛に逢いたいと云うのでございます。まさかに家出をしましたとも云えませんので、まあいい加減に断わりますと、むこうではわたくしが隠しているとでも疑っているらしく、強情に何のかのと云って立ち去りませんので、わたくしもしまいは腹が立って来まして、つい大きい声を出すようにもなりました」
「女はとうとう素直に帰ったのだな」と、半七は訊《き》いた。
「はい。帰るには帰りましたが、帰りぎわに何だか怖いことを云って行きました」
「どんなことを云った」
「あの人にそう云ってくれ。あたしは決しておまえを唯では置かない。それが怖ければ浅草へたずねて来いと……」
「その女は江戸者だな」
「着物から口の利き方まで確かに下町《したまち》の人で、なにか水商売でもしている人じゃあないかと思います。初めて江戸へ出て来た弟がどうしてあんな人を識っているのかと、まったく不思議でなりません」
「おめえの弟は田舎者でもきりり[#「きりり」に傍点]としていると云うから、素早く江戸の女に魅《み》こまれたのかも知れねえ」と、半七は笑った。「女は浅草とばかりで、居どころを云わねえのだな」
「云いませんでした。次郎兵衛は知っているのでございましょう」
「それから、また別に若けえ女が来たと云うじゃあねえか。それはどうした」
「それは、あの……」と、お霜は云い淀んだように眼を伏せた。
「それはおめえも識っている女だな。おなじ村の者か」
お霜はやはり俯向いていた。
「なぜ黙っているのだ。その女は弟のあとを追っかけて来たのか」と、半七は畳みかけて訊いた。
「いえ、そういうわけでは……」と、お霜はあわてて打ち消した。
「それにしても、おめえも識っている女だろう。名はなんというのだ」
「お磯と申しまして、おなじ村の者ではございますが、家が離れて居りますのと、わたくしどもは久しい以前に村を出ましたのでよくは存じません。親の名を云われて、初めて気がついたくらいでございます。これも江戸へ奉公に出て来て、浅草の方にいるとばかりで、くわしいことを申しませんでした」
「これも浅草か」
「これもやはり弟に逢わせてくれと申しまして、なかなか素直に帰りませんのを、わたくしが叱って追い帰しました」
「おめえの弟はよっぽど色男らしいな」と、半七はまた笑った。「年増に魅こまれ、娘に追っかけられ、あんまり豊年過ぎるじゃあねえか。それだから天狗に攫われるのだ。そうして、女二人はそれっきり来ねえのか」
「まいりません」と、お霜ははっきり答えた。「それぎりで再び姿を見せません」
「お磯の親はなんというのだ」
「駒八と申します」
駒八は相当の農家であったが、いろいろの不幸つづきで今は衰微しているという噂であると、お霜は付け加えて云った。
「じゃあ、まあ、きょうはこの位にしよう」と、半七は云った。「おめえは今度のことに就いて、亭主と夫婦喧嘩でもしやあしねえか」
お霜は黙っていた。
「弟の肩を持って、亭主と喧嘩でもしやあしねえか。ふだんもそうだが、こういう時に夫婦喧嘩は猶さら禁物《きんもつ》だ。仲好くしねえじゃあいけねえぜ」
「はい」と、お霜は口のうちで答え
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