いえば女子供でも其の名を知っている位でした。あなたはどういう道順でお出でになりました……。ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢や入間川《いるまがわ》を通って……。成程、陸《おか》を行くとそういう事になりましょうね。江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。浅草の花川戸から船に乗って、墨田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは遙かに便利で、足弱の女や子供でも殆ど寝ながら行かれるというわけです。そんな関係からでしょうか、江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。例の黒船一件で、今にも江戸で軍《いくさ》が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退《たちの》かせたのが随分ありました。わたくしが世話になっている家でも隠居の年寄りと子供を川越へ預けるというので、その荷物の宰領や何かで一緒に行ったことがあります。花の頃ではありませんでしたが、喜多院や三芳野天神へも参詣して来ました。今はどうなったか知りませんが、その頃は石原町というところに宿屋がならんでいて、江戸の馬喰町《ばくろうちょう》の
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