いうのは芸名、生まれは野州宇都宮在で、粂蔵のせがれ粂次郎。こんな奴でもやはり昔の人間で、臍緒書《ほぞのおがき》はちゃんと持っていたのです。もちろん太鼓持の姿で入り込んでは、すぐに正体があらわれますから、田舎者に化けてお城へ乗り込み、いざというときには偽《にせ》気違いで誤魔化す計略。その芝居が万事とどこおりなく運んで、みんなからも大出来と褒められて、約束の五十両を貰って、三八はいい心持で引き退《さが》ったのですが、ここに又一つの面倒が起こりました。と云うのは彼《か》のお葉、こいつなかなか食えない奴で、この一件を知ったから黙っていない。相手は大店《おおだな》の若旦那株だから、嚇《おど》かせば金になると思って啖《くら》い付きました」
「その相摺りは三八ですか」
「三八は五十両でおとなしく黙っていたのですが、お葉の亭主の松五郎には銀六という子分がある。そいつを連れて、お葉は増村へ嚇かしに行く。それも二十両や三十両なら、増村の息子も器用に出すでしょうが、お葉は三百両くれろと大きく吹っかける。いくら大店でも、その時代の三百両は大金で、部屋住みの息子の自由にはならない。といって、例の一件を親や番頭にも打ち明けられないので、自業自得とはいいながら、増村の息子は弱り切っていたのです。ほかに同じ遊び友達があるのに、お葉がなぜ増村ばかりを責めていたのかと云うと、増村の身代が一番大きいのと、最初にお城の一件を云い出したのは増村の息子だというので、専らここばかりへ押して行って、口留め金をくれなければ其の秘密を訴えると云う。これは強請《ゆすり》の紋切形ですが、ゆすられる身になると、それが世間へ知れては大変、わが身ばかりか店の暖簾《のれん》にもかかわる大事ですから、今さら後悔しても追っ付かない。その最中に事が露《ば》れて、まあ大難が小難で済みました」
「三八は高見《たかみ》の見物ですか」
「いや、それだから大難が小難と云うので……」と、老人は顔をしかめて云った。「三八は自分も係り合いだから、仲へはいって三十両か五十両でまとめようと骨を折ったのですが、お葉は容易に承知しない。三八も素姓が素姓だから気があらい。もう一つには、万一お葉の口からその秘密を洩らされたら自分の首にも縄が付く一件ですから、油断は出来ない。これがもう少しごた付いていると、三八は度胸を据えて、お葉と銀六を殺してしまう覚悟であったそ
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