めにしろとお葉も云った。
こんなことで幾日かを夢のように送っているうちに、主婦《あるじ》のおきつが何処からか聞いて来て、江戸城の天狗の一件を話した。証拠の笠に川越次郎兵衛と書いてあったという噂を聞いて、本人の次郎兵衛は顔色を変えた。早速それをお葉に話して、自分の笠を誰が持ち出したのかと詮議したが、お葉は一向知らないと空呆《そらとぼ》けていた。そんなことはちっとも心配するに及ばないと、彼女は平気で澄ましているのであった。
しかし次郎兵衛は安心していられなかった。たとい誰が持ち出したにせよ、その笠に自分の名がしるされてある以上、自分も係り合いを逃《の》がれることは出来ない。事件が重大であるだけに、どんな重い仕置を受けるかも知れないと、年の若い彼は一途《いちず》に恐れおののいた。近所の湯屋や髪結床でその噂を聞くたびに、彼は身がすくむほどにおびえた。
そのうちに、一方のお磯の身売りの相談がまとまって、お葉は本人を引き取るために再び川越へ出て行ったので、その留守のあいだに次郎兵衛は逃げ出した。恐怖に堪えない彼は、どうしても江戸に落ち着いていられないのであった。さりとて故郷へも戻られないので、彼はお霜から幾らかの路用を貰って大磯へ逃げた。
これだけの事を知っていながら、お霜は弟が可愛さに、今まで秘密を守っていたのであった。
「先日のお調べにいろいろ嘘を申し上げまして、まことに申し訳がございません」と、お霜は再び頭を下げた。
「そこで、そのお磯という娘は次郎兵衛と訳があったのか」と、半七は訊いた。
「それは弟もはっきり申しませんでしたが……」と、彼女は答えた。「お磯はお葉という女に連れられて江戸へ出て来ますと、次郎兵衛は姿を隠してしまって、女髪結の二階にはいないので、お葉はおどろいて真っ先きにわたしの家へたずねて参りましたが、先日も申し上げました通り、どこまでも知らないと云い切って帰しました。その晩にお磯が又、お葉の家をぬけ出して尋ねて来まして、自分は今度吉原へ勤めをすることになった。その訳は次郎さんもよく承知しているが、吉原へ行ってしまえば又逢うことは出来ないから、もう一度逢わせてくれと申します。これもはっきりとは云いませんでしたが、どうも弟と訳があるらしいので、わたくしも可哀そうだと思いましたが、弟のゆく先を話して聞かせるわけには参りません。話したところで、大磯まで逢
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