らの声がきこえた。
「やあ、ここに人が死んでいる」
「死んでいるんじゃあない。寝ているんだ」
 その声が耳にひびいて、半七は堤の上から覗いてみると、堤の裾《すそ》の切株に倚《よ》りかかって、一人の男が寝ているらしかった。
「生酔《なまよい》だな」と、半七は思った。
 それでも念のために、彼は堤を降りて、その男の枕もとへ近よると、男は堅気《かたぎ》の町人とも遊び人とも見分けの付かないような風体で、いが栗頭が蓬々《ぼうぼう》と伸びているように見えた。彼はたしかに酒に酔って倒れていたのである。
「もし、おまえさん。まっ昼間から何でこんな所に寝ているのだ」と、半七は近寄って揺りおこした。
 他愛なく眠っているようでも、どこか油断が無かったらしく、揺り起こされて男はすぐにはっ[#「はっ」に傍点]と眼をあいた。彼は自分の前に立っている半七を見て、俄かに起き直って衣紋《えもん》をつくろった。そうして、無意識のように両方の袖口を引っ張った。それが法衣《ころも》の袖をあつかうような手つきであると、半七は思った。
「おまえさんは坊さんかえ」と、半七は訊いた。
「なに、そうじゃあねえ」と、彼は少し慌てたように答えた。「おらあ職人だ」
「めずらしい職人だな。そんな頭で出入り場の仕事に行くのか」
「喧嘩のもつれで、髷を切ったのだ。毛の伸びるまでは、仕事にも出られねえので、よんどころなしにぶらぶらしているのよ」
 彼は三十前後の蒼黒い男で、どうも破戒の還俗僧《げんぞくそう》らしいと半七は鑑定した。彼は半七の相手になるのを避けるようにわざとらしく欠伸《あくび》をして、眼をこすりながら歩き出そうとすると、ふところから重い財布がずしりと地に落ちた。彼はあわてて拾おうとすると、半七はその手をおさえた。
「おい、待ってくれ。落とし物はよっぽど重そうだな。おれに見せてくれ」
「見せてくれ……」と、男は眼をひからせて半七を睨んだ。「ひとの懐中物をあらためてどうするのだ。おめえは巾着切りか、追剥ぎか」
「追剥ぎはそっちかも知れねえ」と、半七は笑った。「まあ、見せろよ」
「てめえたちに見せるいわれはねえ」と、男は半七の手を振り切って、財布を自分のふところへ捻じ込んだ。
「ぬすびとの昼寝ということもある。そんなに重そうな財布をかかえながら、往来に寝込んでいるから調べるのだ。おれが調べるのじゃあねえ。この十手が調べるのだ」
 半七はふところから十手を出した。

     五

 その翌日、半七は歩兵屯所へ出頭して、小隊長の根井善七郎に面会を求めた。
「あなたは二十四日の晩、浅草代地河岸のお園という女の家《うち》へ押込みがはいったのを御存知でしょうか」
「知らない」と、根井は答えた。「そのお園という女は何者だ」
「実は……」と、半七は声を低めた。「大隊長の囲い者でございます」
 大隊長|箕輪《みのわ》主計《かずえ》之助は六百石の旗本である。それが代地河岸に妾宅を持っていようとは、根井も今まで知らなかったのである。箕輪も勿論、秘密にしていたに相違ない。それを半七にあばかれて、根井は他人事《ひとごと》ながらも少しく極まりが悪そうに顔をしかめた。
「して、それがどうかしたのか」
「子分の幸次郎に調べさせましたら、お園の旦那は箕輪の殿様だということがわかりました。お園は二人組の押込みに髪を切られたのでございます。」
「髪を切られた……」と、根井はいよいよ顔を曇らせた。「箕輪|氏《うじ》の囲い者と知っての業《わざ》かな」
「そうだろうと思います」
「その髪切りは歩兵の一件と何か係り合いがあるのだろうか」
 それはこの場合、誰の胸にも浮かぶ疑問である。半七は更に声をひくめた。
「係り合いがあるように思われます。まさか大隊長の髪を切るわけにも行かないので、お妾さんの髪を切ったらしいのでございます。油断をしていると、この屯所の中でもまだまだ切られる者があるかも知れません」
 根井もおおかた覚《さと》ったらしく、これも声を忍ばせた。
「では髪切りは……。屯所内の者の仕業だな」
「鮎川丈次郎、増田太平の二人だろうと思います」
「鮎川と増田……。確かな証拠があるかな」と、根井は形をあらためた。
「きのうの午《ひる》過ぎに、向島の水戸さま前の堤下で、怪しい者を召し捕りました」と半七は説明した。
「坊主あがりで、懐中には二十両ほどの金を所持して居りました。手向かいするのをおさえて、だんだん詮議いたしますと、深川海辺河岸の万華寺の納所《なっしょ》あがりで、良住という者でございました。御承知の通り、万華寺の住職は鮎川丈次郎の親類でございます。良住は身持ちが悪いので寺を逐《お》い出され、今では居どころも定めずごろ付いて居りますが、万華寺にいた縁故から鮎川とも知合いでございます。まだお話を致しませんでしたが、同じ二十四日の晩に、下谷金杉の高崎屋という質屋へも二人組の押込みがはいりました。その一人は髪を切っていたと云うことでしたが、この良住は還俗するつもりとみえて、いが栗頭を長く伸ばしていて、髷を切ったような形にも見えます。その上、懐中には身分不相当の大金を持っているので、こいつが下谷の押込みではないかと睨みまして、きびしく吟味すると案の通りでございました」
「もう一人の同類は誰だ。鮎川か」と、根井は待ち兼ねたように訊いた。
「いえ、これもあなたが御存知のない者で……。湯島天神の藤屋という小料理屋に女中奉公をしているお房という女がございます。その兄の米吉というならず者でございます」
「では、この二人は屯所に関係はないな」
「左様でございます」
 しかし、まったく関係がないとは云えない。鮎川丈次郎はお房の関係から彼《か》の米吉と知合いになった。そうして、米吉の手から金銭をうけ取って髪切りの役目を引き受ける事になったらしい。増田太平も遊蕩の金に困って、鮎川と米吉に誘い込まれたのであろうと、半七は説明した。
 燈台もと暗しと云うか、足もとから鳥が立つと云うか、自分の部下からこの犯人を見いだして、小隊長も頗る意外に感じたらしい。それにつけても第一の問題は、かれらを買収して髪切りのいたずらを実行させた本家本元である。根井は暫く考えながら云った。
「こんにちの世の中だから、誰が何をするか判らないが、それについてはどうも心あたりが無い。お前にはもう探索が届いているのか」
「還俗坊主を取りおさえただけで、その相棒の米吉の居どころがまだ判りません」と、半七は答えた。「良住は髪切り一件には係り合いがないと云って居ります。そんなわけで、誰が金を出して、誰が頼んだのか、そこまでは探索が行き届いて居りませんのでございます」
「むむ。鮎川と増田を詮議すれば判る筈だ」
「それで今朝うかがいましたのでございます」
「よく知らせてくれた」と、根井はすぐに立ちかけた。「そこで、代地の一件だが……。お園という女の髪を切ったのは誰だ。やはり鮎川と増田かな」
「まあ、そうだろうと思いますが……」
 屯所は夕七ツが門限で、その以後の外出は許されない筈である。それにも拘らず、歩兵らは往々夜遊びに出る。今後はその取締りを厳重にしなければならないと、根井は云った。鮎川も増田も夜なかに脱《ぬ》けだしてお園の宅を襲ったのであろう。こういう無規律であるために、歩兵の評判が悪いのである。根井もそれを知っていながら、自分一個の力ではどうにもならないらしかった。
 それでも彼は半七の手前、今後はきっと取締まると繰り返して云った。
「これから鮎川らを即刻吟味する。おまえは暫く待ってくれ」
 云い残して根井は怱々に出て行ったが、やがて又引っ返して来た。
「増田は練兵所に出ていたので、すぐに吟味する事にしたが、鮎川は昨夜から帰隊しないそうだ。あるいは覚って逃亡したのかも知れない」
「子分の亀吉に云いつけて、鮎川のあとを尾《つ》けさせてありますから、その居どころは判る筈でございます」と、半七は云った。
「あいつ、又ほかにも悪い事をして、市中取締りの手に召し捕られたりすると、歩兵隊の不面目だ。おまえに頼む。見つけ次第に取りおさえてくれ」
 その当時の市中取締役は庄内藩の酒井左衛門|尉《のじょう》である。その巡邏隊と歩兵隊とは、とかくに折り合いが悪く、途中で往々に衝突を演ずることがある。市中取締りの立場からいえば、乱暴をはたらく歩兵隊を取締まるのは当然であるが、それが歩兵隊の癪にさわるので、両者は常に睨み合いの姿になっている。鮎川の召し捕りを半七に依頼したのも、彼を巡邏隊の手に渡すまいという根井の用心であるらしい。それを察して半七も請け合って帰った。
 三河町の家へ帰ると、亀吉が待っていた。
「あれから鮎川のあとを追って行くと、竹屋の渡しを渡って今戸へ越して、それから花川戸の方角へぶらぶらやって来ると、むこうから米吉の野郎が来て、両方がばったりと出逢いました。こりゃあ面白くなったと思うと、往来のまん中で立ち話、これにゃあどうも困りました。真っ昼間の往来だから近寄ることが出来ねえ。ただ遠くから様子を窺っているだけのことでしたが、二人の様子が唯でねえ。なにか捫著《もんちゃく》でもしているらしい風に見えましたが、なにしろ人通りの多い所だから、二人もいつまで捫著してもいられねえので、まあいい加減に別れてしまったようです。鮎川はそれから天神下へ行って、例の藤屋へはいり込みました」
「その鮎川はゆうべから屯所へ帰らねえそうだ」
「野郎、泊まり込んでいやがるのか。それともお房を引っ張り出して、駈け落ちでもしやあがったかな」と、亀吉は半七の顔色をうかがった。「どうしましょう。すぐに藤屋へ行ってみますか」
「そうだ、駈け落ちなんぞをされると困る。構わねえから、見つけ次第に押さえてしまえ。小隊長から頼まれているのだ。早く行ってくれ」
 亀吉を追い出してやると、入れちがいに弥助が来た。
「親分。藤屋のお房はゆうべから帰らねえそうです」
「鮎川と一緒か」
「そうです。明るいうちから鮎川は飲みに来ていて、日が暮れて屯所へ帰る。お房はそれを送りながら一緒に出て行って、それっきり帰らねえそうですよ」
「困ったな」
 半七は歎息した。亀吉が根気よく藤屋に張り込んでいたならば、鮎川とお房の消息を探ることが出来たかも知れなかったのであるが、藤屋へはいるまでを見届けて、これから先は例の通りと、見切りをつけて引き揚げてしまったのが、今更おもえば不覚であった。その不覚のために、この事件の一半を不得要領に終らせることになった。

     六

「なんでも油断をしちゃあいけません。亀吉がうっかり油断した為に、折角の探索をめちゃめちゃにしてしまって、当人も後々まで悔んでいましたよ」と、半七老人は云った。
「二人のゆくえはとうとう知れないんですか」と、わたしは訊《き》いた。
「知れません。幸次郎をやって、鮎川の故郷の大宮在を探索させましたが、そこへも立ち廻った形跡がありません。勿論、江戸市中や近在には姿をみせず、そのうちに御一新の大騒ぎですから、そんな詮議をしてもいられません。明治になったのは二人の仕合わせで、どこにか天下晴れて暮らしているでしょう。世の中が変ると、思いも寄らない得《とく》をするものも出来ます」
「増田の方は捉《つか》まったんですな」
「これは前に申した通りで、髪切りは全く鮎川と自分の仕業に相違ないと白状しました。代地河岸のお園の家へ押込んだのも、二人の仕業でした。ところが、これも困ったことには吟味中に押込み所を破って逃げてしまいました。歩兵隊も重々不取締りで致し方がありません」
「一体、誰に頼まれたんですか」
「それが肝腎の問題ですが、増田は鮎川と米吉に誘い込まれて、最初に十五両、二度目に十両貰っただけで、その頼み手は知らないと強情を張っていました。何分にも一方の鮎川が見付からないので、詮議も思うように捗取《はかど》らない。そのうちに増田は逃亡してしまって、これもゆくえ不明ですから、詮議の手蔓も切れたわけで……。こんにちの言葉で申せば五里霧中です」
「しかし、まだほかに米吉がいる筈ですが……」

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