その米吉が又いけないのです」
「どうしました」
「王子辺の川のなかで浮いていました」
「殺されたんですか」
「豹に啖《く》われて……」
「本当に啖われたんですか」
「と、まあ、云っているのですが……」と、老人は笑った。「わたくしはその死骸を見ませんでしたが、なにかの獣《けもの》に体を啖われていたそうです。野良犬に咬まれたのでしょうね。坊主あがりの良住と一緒に押込みを働いて、ふところは相当に重い筈ですから、どこかの大部屋へでも遊びに行って打ち殺されたか、ごろつき仲間にでも狙われたか、それとも別に仔細があるのか、ともかくも誰かに打ち殺されて、死骸を王子辺のさびしい所へ捨てられた。それを野良犬どもが咬み散らして、川のなかへでも転がし込んだのでしょう。しかしその当時は豹に啖い殺されたという評判でした」
「観世物の豹は本当に逃げたんですか」
「逃げたというのは例の噂で、上州から野州の方を持ち廻っていたのだそうです。しかし、米吉の死んだのは本当です」
「そうすると、詮議の種も尽きたわけですな」と、わたしも失望したように云った。
「まあ、そういうことになります。良住という奴は髪切り一件に関係が無いとすれば、あとは鮎川と増田ですが、この二人はいずれも行方不明、お房も同様、残る米吉は豹に啖われたと云うようなわけですから、関係者は種切れです。そこで、屯所側の鑑定では、この事件のうしろには大名屋敷の黒幕が付いていて、鮎川らを操《あやつ》って歩兵隊にケチを付ける計画だろうと云うのでした。幕府反対の大名たちが……と云っても主人が知ったことじゃあありますまいが、その家来たちがいろいろの策動をして、幕府困らせをやる。今度の一件も薩州屋敷あたりの者が内々で運動費を使って、こんな悪戯《いたずら》をして、幕府の歩兵の信用を墜《おと》させようと企てたのであろうと云うのです。今から考えると、子供のような悪戯とも思われますが、その時代にはこんな悪戯もなかなか有効であったのですから、誰かが考え付いたのかも知れません。
果たしてそうだとすれば、米吉という奴は博奕を打つので大名屋敷の大部屋へはいり込む関係から、こいつが先ず誰かに買収されたものと想像されます。米吉はお房の縁で鮎川を抱き込む、つづいて増田を味方に引き入れる。狂言の筋立ては大方こんなことでしょう。昔から悪い事をする人間はみんなそうですが、鮎川も増田も
前へ
次へ
全23ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング