眺めているうちに、半七はふと何事をか思いついた。
「おれは早く帰るから、留守に誰か来たら待たせて置いてくれ」
云い置いて、彼は早々に出て行った。観音堂に参詣して、例の唐蜀黍《とうもろこし》や青ほおずきの中を通りぬけて、午飯《ひるめし》も食わずに急いで帰ると、善八が待っていた。
「早速だが、善八。これからすぐにお台場へ行って、人入れの人足部屋を洗ってくれ。おれも今まで気がつかなかったが、例の伝蔵の奴め、お台場人足のなかにまぎれ込んでいるかも知れねえ。どうで長げえ命はねえ奴だ。このごろ流行る唄じゃあねえが、死ぬにゃ優しだよ土かつぎと度胸を据えて、命がけで荒れえ銭を取って、うめえ酒の一杯も飲んでいるような事がねえとも云えねえ」
「成程そんなことかも知れません。じゃあ、早速行って来ます」
善八はすぐに飛び出した。
「お話は先ずここらで打ち留めでしょう」と、半七老人は云った。「なぜ早くに気がつかなかったかと、今でも不思議に思うくらいです。お台場の一朱銀なぞは始終見ているくせに、なんにも気がつかずに過ごしていて、ふいと思い付くと、それからとんとんと順序好く運んで行くのも妙です。こうなると、自分の知恵じゃあない、神か仏が知恵を貸してくれたようにも思われますよ」
「伝蔵は人足になっていたんですか」と、わたしは訊いた。
「何百人の人足がはいっているのですが、それを監督する人入れの組々がありますから、それについて調べれば判るわけです。伝蔵は芝の人入れの清吉の組にもぐり込んでいました。なにしろ大勢の人足を使うのですから、どこの人入れでも一々その身許詮議などをしちゃあ居られません。手足の満足な人間が使ってくれと云って来れば、構わずにどしどし働かせるのですから、伝蔵のような奴の隠れ家にはお誂え向きで、そこに早く気がつかなかったのは半七が重々の手ぬかり、まことに申し訳がありません。
清吉の組にそれらしい奴のいることを調べ出したが、善八は伝蔵の顔を知りませんから、麹町の飼葉屋の直七を連れて行って、そっと首実検をさせると、確かに伝蔵に相違ないと云うのです。そこで、わたくしから清吉に掛け合いまして、伝蔵を逃がさないように用心させて置きました。もうこうなれば、生洲《いけす》の魚《うお》です」
「そこで、かたき討ちの様子は……」
「かたき討ちの様子……。物語らんと座を構えると、事が大仰《おおぎょう》になりますが、まあ掻いつまんで申し上げれば、その日は七月十二日、朝の五ツ時(午前八時)に笹川の鶴吉は直七附き添いで高輪へ出て来る。鶴吉は吉良の脇指を風呂敷につつんでいました。かねて打ち合わせがしてありますから、二人は海辺の茶屋に休んで待っている。わたくしは善八と松吉を連れて、清吉の小屋へ出て行きますと、これも打ち合わせがありますから、小屋からは伝蔵を叩き出す。そうして表へ出たところを、わたくし共が寄って取り押さえまして、しかしすぐには縄をかけないで、善八と松吉が伝蔵の両腕を取って、鶴吉の待っている茶屋の前まで引き摺って行きました。わたくしもあとから付いて行って、さあ、伝蔵、覚悟しろ。笹川の鶴吉さんが主人と姉のかたき討ちをするのだと云うと、善八と松吉は捉えていた両手を放してやりました。
こうなったら仕方がない。尋常に覚悟をきめて立派に討たれてやればいいのに、伝蔵は両手をゆるめられたのを幸いに、忽ち摺り抜けて逃げ出そうとする。そこへ鶴吉が飛びかかって、例の脇指で背中から突き透しました。芝居ならば、わたくしが座頭役《ざがしらやく》で、白扇でも開いて見事見事と褒め立てようと云うところです。わたくしもまあ、これで重荷をおろしたような気になりました。
かたき討ちを首尾よく済ませた上で、鶴吉は直七附き添いで番屋へ訴え出ました。わたくし共が付いて行くと事面倒ですから、あくまでも鶴吉ひとりの仇討ということにして、わたくし共は茶屋にひと休みして引き揚げました。前にも申す通り、このかたき討ちには少し無理がありますから、あとの始末がどうなるかと案じていましたが、なにしろ伝蔵の罪科明白なので、上《かみ》にも相当の手心があったのでしょう。案外無事に済みました」
「その脇指はどうなりました」
「なんでも笹川の家から福田の屋敷の菩提所、光隆寺へ納めたとか聞きましたが、それからどうなったか知りません。考えてみると、かたき討ちの場所は高輪で、例の泉岳寺の近所、脇指は吉良の物、どこまでも縁を引いているのも不思議で、訳を知らない人が聞いたら、こしらえ話のように思うかも知れません」と、老人は笑っていた。
わたしが暇乞いをして帰る頃には、細かい雪がちらちら降り出した。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(五)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年10月20日初版1刷発行
※底本は、物を
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