昔はあまり厳しく詮議しなかったのですから、そのまま無事に過ごしていれば、暗いところへ行かずに済んだかも知れませんが、こんな女は無事に世を送ることは出来ない。結局は何事かしでかして、いわゆる『お上《かみ》のお手数《てかず》をかける』と云うことになるのです。
さてこれからがお話です。その翌年、即ち文久二年の夏から秋にかけて、麻疹《はしか》がたいへんに流行しました。いつぞや『かむろ蛇』のお話のときに、安政五年のコロリのことを申し上げましたが、それから四年目には麻疹の流行です。安政の大コロリ、文久の大麻疹、この二つが江戸末期における流行病の両大関で、実に江戸じゅうの人間をおびえさせました。これもその年の二月、長崎へ来た外国船からはやり出したもので、三月頃には京大坂に伝わり、それが東海道を越えて五、六月頃には江戸にはいって来ると、さあ大変、四年前の大コロリと負けず劣らずの大流行で、門《かど》並みにばたばた仆《たお》れるという始末、いや、まったく驚きました。
コロリはもちろん外国船のお土産です。麻疹は昔からあったんですが、今度の大流行はやはり外国船のおみやげです。そんなわけで、黒船《くろふね》は悪い病いをはやらせるという噂が立って、江戸の人間はいよいよ異人を嫌うようになりました。中には異人が魔法を使うの、狐を使うの、鼠を放すのと、まことしやかに云い觸らす者もある。麻疹は六月の末からますます激しくなって、七月の七夕《たなばた》も盂蘭盆《うらぼん》もめちゃめちゃでした。なにしろ日本橋の上を通る葬礼《とむらい》の早桶が毎日二百も続いたというのですから、お察しください。
それでも達者で生きている者は、中元の礼を見合わせるわけにも行きません。わたくしの子分の多吉という奴が、七月十一日のゆう方に、本所の番場まで中元の砂糖袋をさげて行って、その帰りに両国の方へむかって大川端をぶらぶら歩いて来る。こんにちとは違って、片側は大川、片側は武家屋敷ばかりで、日が暮れると往来の少ないところです。しかし日が暮れたといっても、まだ薄明るい、殊に多吉は商売柄、夜道をあるくのは馴れているので、平気で横網の河岸《かし》のあたりまで来かかると、向うから二人の男が来るのに逢いました。
見ると、二人は早桶を差荷《さしにな》いでかついでいる。このごろの弔いは珍らしくもないのですが、たれも提灯も持っていない。まだ
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