った。この上はもう猶予すべきでない。半七は突然に声をかけた。
「もし、おまえさんは誰だね」
相手は返事をしなかった。
「わしらは御用でここに張り込んでいるのだ。返事をしねえと、つかまえるよ」と、半七は再び云った。
相手はやはり返事をしなかった。
二度までも念を押して、相手が黙っている以上、手捕りにするのほかはないので、松吉は探り寄って取り押さえようとすると、相手はいつの間にか摺り抜けてしまったらしく、そこらに人らしい物はいなかった。
「いねえか」と、半七は小声で訊いた。
「はてな」と、松吉はそこらを探し廻っていた。
この時、犬の群れはまた吠え出して、何者かが草の上を這って行くらしいので、半七は走りかかって押さえ付けた。暗いなかで、その腰のあたりへ手をかけたかと思うと、相手は急に跳ね起きて両手で半七の喉を絞めようとした。半七はその手を取って、再び草の上に捻じ伏せた。
「つかめえましたか」と、松吉は声をかけた。
「仕様がねえ。石橋山の組討ちだ」と、半七は笑った。「だが、もう大丈夫。女だ、女だ」
半七と松吉に引き摺られて、荒物屋の店の灯の前に照らし出された曲者は、六十前後の老女であった。その人柄や身装《みなり》によって察すれば、彼女もおころと同様に市子か巫子《みこ》のたぐいであるらしかった。
店の框《かまち》に腰をかけながら、半七は訊いた。
「おめえは何処の者だ」
「信州から来ました」と、老女は案外におとなしく答えた。
信州といえば、戸隠山《とがくしやま》の鬼女を想像させるが、彼女はそのやつれた顔に一種の気品を具えていた。その物云いや行儀も正しかった。
「名は何といって、いつから江戸へ来ているのだ」
「お千といいます。江戸へはこの六月に出て来ました」
「それまで国にいたのか」
「いいえ。江戸へ一度出て来まして、それから出羽奥州、東海道、中仙道、京、大坂、伊勢路から北国筋をまわって、十一年目に江戸へ来ました」
「なんでそんなに諸国を廻っていたのだ」
「尋ねる人がありまして……」
「たずねる人というのは……。市子のおころか」
「はい」
老女の眼は怪しく輝いた。
「ゆうべおころを殺したのはお前だな」
「はい」と、彼女は素直に白状した。
「今夜はここへ何しに来た」
「狐を取りに来ました」
膝の上に置いた彼女の両手の爪は、天狗のように長く伸びていた。取り分けて人差
前へ
次へ
全20ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング