、音造も店の方へは近寄らないで、杉の森新道の隠居所へ押し掛けて行く。最初は金をいたぶっていたんですが、度重なるうちに色気にころんで来る。それが斯ういう奴らの手で、色気の方に関係を付けてしまえば、何事も自分の自由になる。お半も我が身に弱身があるから仕方がない、忌忌《いやいや》ながら音造の云うことを肯《き》いていたというわけです。
 それを又、信次郎に覚られた。勿論、信次郎にも弱身があるから、表向きに音造を責めることも出来ず、お半を怨むわけにも行かない。しかし内心は面白くないから、幾らかお半に面当《つらあ》てのような気味で、両国の列び茶屋などへ遊びに行って、お米という女と関係が出来てしまった。それがお半に知れると、自分のことを棚にあげて信次郎を責める。信次郎も音造の一件を楯《たて》に取ってお半を責める。こういう風にこぐらかって来ると、ひと騒動おこるは必定《ひつじょう》。おまけにお米の叔父の清五郎というのが良くない奴で、相手が駿河屋の若主人というのを付け目に、お米をけしかけて駿河屋に乗り込ませる魂胆、これではいよいよ無事に済まない事になります。
 お半は隠居したと云うものの、信次郎は養子の身分であるので、家付きの地所家作なぞはまだ自分の物になっていない。お米を自分の店へ引っ張り込むなぞということは、とてもお半の承知する筈がない。かたがたお半を亡き者にしてしまわなければ、何事も自分の自由にはならない。以前の信次郎ならば、まさかそんな料簡も起こさなかったでしょうが、かの音造の一件からお半に対して強い嫉妬を感じている。そこへ付け込んで、清五郎がうまく焚き付けたので、とうとう叔母殺しという大罪を犯すことになったんです。年が若いとは云いながら、人間の迷いは恐ろしいものです。
 そこで、どうしてお半を片付けようかと狙っていると、かの浅草の観世物の評判が高い。そこへ引っ張り込んで殺すという計略、それは清五郎が知恵を授けたんです。当日お半と約束して、信次郎は花川戸の同商売の家へ行くと云い、お半は観音へ参詣すると云い、途中で落ち合って一緒に浅草へ出かけました。二人の出逢い場所はふだんから決まっているので、浅草辺の小料理屋の二階で午過ぎまで遊び暮らして、それから仁王門前の観世物小屋へ見物に行く。幽霊の観世物なぞは忌だとお半が云うのを、信次郎が無理に誘って連れ込んだ。しかし二人が一緒にはいっては人の目に付くというので、ひと足先にお半をはいらせて、信次郎はあとからはいる。かねて打ち合わせてあるので、又そのあとから清五郎とお米もはいる。お米に手伝いをさせる訳ではないが、木戸の者に油断させるために、わざと女連れで出かけたんです。
 お半は幽霊を怖がって、中途から右の路へ出ようというのを、胸に一物《いちもつ》ある信次郎は、無理に左の方へ連れ込むと、お半はいよいよ怖がって信次郎にすがり付く。そこを窺って、清五郎が鉄槌《かなづち》で頭をひと撃ち……」
「お半を殺した三人は、幽霊が生きていることを知らなかったんですね」
「そこが運の尽きです」と、老人はほほえんだ。「なんと云っても、みんな素人《しろうと》の集まりですから、こういう観世物の秘密を知らない。木の上の猿も、柳の下の幽霊も、それが生きた人間とは夢にも知らないで、平気で人殺しをやってしまったんです。しかし前にも申す通り、猿や幽霊の方にも秘密があるので、自分たちの眼の前に人殺しを見ていながら、それを迂濶《うかつ》に口外することが出来ない。そこで一旦は計略成就して、お半は幽霊におびえて死んだことになって、無事に死骸を引き取って、葬式までも済ませたんです。定めてあっぱれの知恵者と自慢していたんでしょうが、そうは問屋で卸《おろ》しませんよ」
「さっきからのお話では、あなたは最初から駿河屋の信次郎に眼を着けて居られたようですが、それには何か心あたりがあったんですか」
「心あたりと云う程でもありませんが、なんだか気になったのは、お半の帰りが遅いと云うので、店の若い者を浅草へ出してやる。そのあとで信次郎は、観世物小屋で女の見物人が死んだという噂をふと思い出して、更に番頭を出してやると、果たしてそうであったという。勿論、そういうことが無いとは限りません。しかしその話を聞いた時に、わたくしは何だか信次郎を怪しく思ったんです。義母の帰りが遅いからといって、幽霊の観世物を見て死んだんだろうと考えるのは、あんまり頭が働き過ぎるようです。本人は当日花川戸へ行って、その噂を聞いて来たと云うんですが、噂を聞いただけでなく、何もかも承知しているんじゃあないかという疑いが起こったんです。
 もう一つには、お半という女隠居が、自分ひとりで左の路を行ったことです。連れでもあれば格別、女のくせに右へは出ないで、左へ行ったのが少し不思議です。路に迷ったと
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