た時、半七はすぐに其の手を取って、あべこべにぐいと引くと、不意をくらって怪物は立ち木の枝からころげ落ちた。透かして見ると、それは猿のような姿である。
「馬鹿野郎」
半七はその横っ面をぽかりと殴りつけると、怪物はあっ[#「あっ」に傍点]と悲鳴をあげた。半七はつづけて二つ三つ殴った。
「なんだ、てめえは……。変な物に化けやあがって、ふてえ奴だ。そっちの幽霊もここへ出て来い。おれは御用聞きの半七だ。どいつも逃げると承知しねえぞ」
御用聞きの声におどろいて、猿のような怪物はそこに小さくなった。柳の下に立っていた女の幽霊も、思わずそこに膝をついた。行く先の藪のかげでも、何かがさがさいう音がきこえて、幽霊の仲間が姿を隠すらしく思われた。
無事に左の路を通り抜けたものには、景品の浴衣地《ゆかたじ》をやるといい、それを餌《えさ》にして見物を釣るのであるが、十六文の木戸銭で反物をむやみに取られては堪まらない。そこで、左の路には作り物のほかに、本当の幽霊がまじっている。或る者が幽霊その他の怪物に姿を変じて、いろいろの手段を用いて人を嚇《おど》すのである。この時代にはこんな観世物のあることは半七はかねてから知っていた。
「てめえは猿か。名はなんというのだ」
「源吉と申します」と、十三四の小僧が恐れ入って答えた。
「そっちの幽霊は何者だ」
「岩井三之助と申します」と、幽霊は細い声で答えた。彼は両国の百日芝居の女形《おんながた》であった。
「こんないかさまをしやがって、不埓な奴らだ」と、半七は先ず叱った。「これから俺の訊《き》くことを何でも正直に云え。さもねえと、貴様たちの為にならねえぞ」
「へい」
猿も幽霊も頭をかかえて縮みあがった。半七はそこにころげている捨石《すていし》に腰をおろした。
「先月の末に、照降町の駿河屋の女隠居がここで頓死した。貴様たちが何か悪い事をしたのだな。質《たち》のよくねえ嚇《おど》かし方をしたのだろう。隠さずに云え」
「違います。違います」と、二人は声をそろえて云った。
「それじゃあ誰が殺したのだ」
二人は顔を見合わせていた。
「さあ、正直に云え。云わなけりゃあ貴様たちが殺したのだぞ。人を殺して無事に済むと思うか。どいつも一緒に来い」
半七は両手に猿と幽霊をつかんで引っ立てようとすると、源吉も三之助も泣き出した。
「親分、勘弁してください。申し上げます。申し上げます」
「きっと云うか」と、半七は掴んだ手をゆるめた。「貴様たちの云う前に、おれの方から云って聞かせる。女隠居と一緒に、若い男がここへ来たろう」
「まいりました」と、三之助は答えた。「隠居さんは怖いから忌《いや》だというのを、男が無理に連れて来たようでした」
「そうか。そのあとから男と女の二人連れが来たろう。前の男と、あとの二人……。この三人のうちで、誰が隠居を殺した。おそらく前の男じゃあるめえ。あとから来た男が殺したか」
「へい」と、三之助は恐るおそる答えた。
「貴様たちは、ここにいて何もかも見ていたろう。あとから来た奴がどうして隠居を殺した」
「わたくしが女の髷をつかむと、女はぎゃっ[#「ぎゃっ」に傍点]と云って、男に抱き付きました」と、源吉は説明した。「男は、なに大丈夫だと云って、女を抱えるようにして三之助さんの方へ歩いて来ました」
「わたくしが手をあげて招くようにすると、女は又きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と云って男にしがみ付きました」と、三之助が代って話した。「その時に、あとから来た男が駈け寄って、なにか鉄槌《かなづち》のような物で女の髷のあたりを叩きました。薄暗くって、よくは判りませんでしたが、女はそれぎりでぐったり倒れたようでした。それを見て、男同士はなにか小声で云いながら、怱々《そうそう》に引っ返してしまいました」
「連れの女はどうした」
「連れの女はあとの方から眺めているだけで、これも黙って立ち去りました」
この事実を眼のまえに見ていながら、彼等はそれを口外しなかったのは、自分たちの秘密露顕を恐れたからである。あの観世物小屋には人間が忍ばせてあるなどという噂が立っては、商売は丸潰れになるばかりか、どんな咎めを受けないとも限らないので、かれらは素知らぬ顔をしていたのである。
「よし、それで大抵わかった。いずれ又よび出すかも知れねえが、そのときにも今の通り、正直に申し立てるのだぞ」
半七は二人に云い聞かせて、左の裏口から出ると、そこには亀吉が待っていた。
「親分、どうでした」
「もういい。これから八丁堀へ行って、きょうの顛末を旦那に話して、それぞれに手配りをしなけりゃあならねえ」
そこへ善八も廻って来た。
「駿河屋の女隠居を殺した奴らは三人だ」と、半七はあるきながらささやいた。「若けえ男というのは駿河屋の養子の信次郎だ。年頃から人相がそれ
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