り放そうとしたが、女はなかなか放さない。長助も一生懸命で、滅茶苦茶に女をなぐり付けて、どうやらこうやら突き倒して逃げた。こうなると、もう前へむかって逃げる元気はない。彼はあとへ引っ返して逃げたのである。
 表の木戸口まで逃げ出して、彼は木戸番に食ってかかった。
「ふてえ奴だ。こんないかさまをしやあがる。生きた人間を入れて置いて、人を嚇かすということがあるものか。さあ、木戸銭を返せ」
 木戸銭をかえすのはさしたることでも無いが、いかさまをすると云われては商売にかかわるというので、木戸番も承知しなかった。論より証拠、まずその実地を見とどけることになって、長助と木戸番は小屋の奥へはいると、果たして柳の木の下にひとりの女が倒れていた。それは人形でもなく、拵え物でもなく、確かに正真《しょうしん》の人間であるので、木戸番もびっくりした。
 こういう興行物に変死人などを出しては、それこそ商売に障るのであるが、所詮《しょせん》そのままで済むべきことではないので、事件は表向きになった。

     二

 長助に踏まれた時には、女はまだ生きていたらしいが、それを表へ運び出して近所の医者を呼んで来た時には、まったく息は絶えていた。医者にもその死因は判然《はっきり》しなかった。恐らくかの幽霊におどろきの余り、心《しん》の臓を破ったのであろうと診断した。検視の役人も出張ったが、女の死体に怪しむべき形跡もなかった。からだに疵の跡もなく、毒なども飲んだ様子もなかった。
 ほかの観世物と違って、大勢が一度にどやどやと押し込んでは凄味が薄い。木戸口でもいい加減に人数を測って、だんだんに入れるようにしているのであるが、かの女は長助のはいる前に木戸を通った者である。女のあとから一人の若い男がはいった。それから男と女の二人連れがはいった。その三人はいずれも右の路を取って、無事に出てしまった。その次へ来たのが長助である。して見ると、かの女は大胆に左の路を行って、赤子を抱いた幽霊におどかされたらしい。
 これは浅草寺内の出来事であるから、寺社奉行の係りである。それが他殺でなく、幽霊を見て恐怖のあまりに心臓を破って死んだというのでは、別に詮議の仕様もないので、事件は手軽に片付けられた。
 さてその女の身許《みもと》であるが、それも案外に早く判った。その当日、駿河屋の養子の信次郎も、商売用で浅草の花川戸まで出向
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