けて興行するのが習いで、冬の寒いときに幽霊の観世物なぞは無かったようです。芝居でも怪談の狂言は夏か秋に決まっていました。そこでこのお話も安政元年の七月末――いつぞや『正雪の絵馬』というお話をしたでしょう。淀橋の水車小屋が爆発した一件。あれは安政元年の六月十一日の出来事ですが、これは翌月の下旬、たしか二十六七日頃のことと覚えています。
 その頃、浅草、仁王門のそばに、例の幽霊の観世物小屋が出来ました。これは利口なやりかたで、出口が二ヵ所にある。途中から路がふた筋に分かれていて、右へ出ればさのみに怖くないが、その代りに景品を呉れない。左へ出るといろいろな怖い目に逢うが、それを無事に通れば景物を呉れる。つまりは弱い者にも強い者にも見物が出来るような仕組みになっているので、女子供もはいりました。その女のなかで、幽霊におびえて死んでしまったのがある。それからひと騒動、まあ、お聴きください」

 死んだ女は日本橋材木|町《ちょう》、俗に杉の森|新道《じんみち》というところに住んでいるお半という者であった。お半といえば若そうにきこえるが、これは長右衛門に近い四十四五歳の大年増《おおどしま》で、照降町《てりふりちょう》の駿河屋という下駄屋の女隠居である。照降町は下駄や雪踏《せった》を売る店が多いので知られていたが、その中でも駿河屋は旧家で、手広く商売を営んでいた。
 駿河屋の主人仁兵衛は八年以前に世を去ったが、跡取りの子供がない。但しその以前から主人の甥の信次郎というのを養子に貰ってあったので、当座は後家のお半が後見をしていたが、三年前から養子に店を譲ってお半は近所の杉の森新道に隠居したのである。
 お半は変死の当日、浅草観音へ参詣すると云って、朝の四ツ(午前十時)頃に家を出た。女中も連れずに出たのであるから、出先のことはよく判らないが、まず観音に参詣して、そこらで午飯《ひるめし》でも食って、奥山のあたりでも遊びあるいて、それから仁王門そばの観世物小屋へ入り込んだのであろう。その死体の発見されたのは、夕七ツ(午後四時)に近い頃であった。
 下谷|通新町《とおりしんまち》の長助という若い大工が例の景品をせしめる料簡《りょうけん》で、勇気を振るって木戸をはいって、獄門首のさらされている藪のきわや、骸骨の踊っている木の下や、三途《さんず》の川や血の池や、それらの難所をともかくも通り越して
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