ろう。おめえはこれから根岸へ行って、乳母のお福の宿をしらべて来てくれ。お福の先《せん》の亭主は道楽者で、浅草に住んでいると云うから、これもついでに洗って来てくれ」
「乳母が怪しいのですかえ」
「怪しいどころか、番頭の話じゃあ正直な忠義者だそうだが、この頃の忠義者は当てにならねえ。ともかくもひと通りは手を着けて置くことだ」
「ようがす。すぐに行って来ます」
「浅草の方は庄太の手を借りてもいい。なるべく早くやってくれ」
弥助を出してやった後に、半七はかんがえた。これから菊園へ出向いて、一度主人たちにも逢い、家内の者の様子を見とどけるのが、まず正当の順序であるが、もし家内にかかり合いの者があるとすれば、かえって用心させるような事になって妙でない。遠方から遠巻きにして、最後に乗り込む方がよかろうと思った。もう一つには、きょうは九ツ(正午)からどうしても見送りに行かなければならない葬式《とむらい》がある。それを済ませてからでなければ、どこへも手を着けることは出来ない。又その出前には八丁堀の旦那のところへも顔出しをしなければならない。半七は忙がしい体《からだ》であった。
八丁堀から葬式へまわると、寺は橋場であった。八ツ(午後二時)過ぎに寺を出て、ほかの会葬者とあとさきになって帰る途中で、半七はふと思いついた。子分の庄太の家は馬道《うまみち》である。弥助をけさ出してやったものの、自分も道順であるからちょっと立ち寄ってみようと、馬道の方角へぶらぶら辿ってゆくと、庄太は懐ろ手をして露路の入口に立っていた。
「やあ、親分。どこへ……」
「橋場の寺まで行って来た」
「弔《とむれ》えですか」
「むむ。弥助は来たか」
「まだ来ません。何かあったのですか」
「すこし頼んだことがあるのだが……。あいつは気が長げえから埓が明かねえ」
「まあ、おはいんなせえ。だが、きょうはあいにくの日で、大変ですよ。隣りの長屋二軒が根継《ねつ》ぎをするという騒ぎで、露路のなかはほこりだらけ……。わっしも家《うち》にいられねえから、表へ逃げ出して来たような始末で……」
庄太は笑いながら先に立って引っ返すと、なるほど狭い露路のなかは混雑して、二軒の古い長屋は根太板《ねだいた》を剥がしている最中であった。そのほこりを袖で払いながら、その長屋の前を足早に通り過ぎようとする時、なにか半七の眼についた物があった。
「おい、庄太。あれを拾って来てくれ」
「なんです」
「あの橙《だいだい》よ」
根太板を剥がれた床下《ゆかした》は、芥溜《ごみた》めのように取り散らしてあった。そのなかに一つの大きい橙の実が転げているのを拾わせて、半七は手に取って眺めた。橙には龍という字があらわれていた。近い頃に書いたと見えて、墨の色もまだはっきりと読まれた。
それが火伏せの呪禁《まじない》であることを半七は知っていた。橙に龍という字をかいて、大晦日《おおみそか》の晩に縁の下へ投げ込んで置くと、その翌年は自火は勿論、類焼の難にも逢わないと伝えられて、今でもその呪禁をする者がある。おそらく龍が水を吐くとか、雨を呼ぶとかという意味であろう。この橙のまだ新らしいのを見ると、去年の大晦日に投げ込んだものらしい。その「龍」という字に見覚えがあると、半七は思った。
「ここの家《うち》は誰だ」
「夜蕎麦売りの仁助で、その隣りが明樽《あきだる》買いの久八です」と、庄太は答えた。
「隣りにも橙があるか無いか、探してくれ」
庄太は芥をかき分けて詮索したが、隣りの床下には獲物がなかった。内へはいると、庄太の女房も出て来た。ひと通りの挨拶の済んだあとで、半七はかの橙を手の上に転がしながら訊《き》いた。
「この龍という字は、なかなかしっかり書いてある。仁助とかいう奴が自分で書いたのじゃああるめえ。誰に頼んだのか、知らねえか」
「表の白雲堂ですよ」と、女房が口を出した。
表通りに幸斎という売卜者《はっけみ》が小さい店を開いていて、白雲堂の看板をかけている。夜蕎麦売りの仁助はその白雲堂にたのんで、橙に龍の字をかいて貰ったのであると、彼女は説明した。
「白雲堂……。そりゃあどんな奴だ」と、半七はまた訊いた。
今度は庄太が代って説明した。白雲堂の幸斎は五十二三の男で、ここに十年あまりも住んでいる。自分はよくも知らないが、うらないは下手《へた》でもないという噂である。幸斎は独り者で、女房子《にょうぼこ》は勿論、親類なども無いらしい。酒を少し飲むが、別に悪い評判もない。近所の者にたのまれて、手紙の代筆などをするが、これも売卜者のような職業としては珍らしいことでもない。要するに白雲堂は世間にありふれた売卜者という以外に、変ったことも無いらしかった。
「そこで、その龍の字に何か引っかかりがあるのですかえ」と、庄太は訊いた。
「むむ。すこし忌《いや》なことがある」と、半七は又かんがえていた。「だが、庄太。やっぱり人頼みじゃあいけねえ。自分が足を運んで来たお蔭で、飛んだ掘り出し物をしたらしい」
「へえ、そうですかね」
訳を知らない庄太は、ただ感心したように首をかしげていると、隣りでは壁を崩すような音ががらがらと聞こえて、それと同時に弥助が転《ころ》げるように駈け込んで来た。
「やあ、ひどい、ひどい。飛んだところへほこりを浴びに来た」
彼は手拭で顔や着物を払いながら、半七を見て驚いたように会釈《えしゃく》した。
「親分、もう先き廻りをしたのですか」
「江戸っ子は気が早え」と、半七は笑った。「そこで、どうだ。根岸の方は……」
「わっしのことを気が長げえと云うが、その代りに仕事は念入りだ。まあ、聴いておくんなせえ」
「一軒家じゃあねえ、大きな声をするな」
半七に注意されて、彼は小声で話し出した。
三
根岸が下谷区に編入されたのは明治以後のことで、その以前は豊島郡金杉村の一部である。根岸といえば鶯の名所のようにも思われ、いわゆる「同じ垣根の幾曲り」の別荘地を忍ばせるのであるが、根岸が風雅の里として栄えたのは、文化文政時代から天保初年が尤も盛りで、水野閣老の天保改革の際に、奢侈《しゃし》を矯正する趣意から武家町人らの百姓地に住むことが禁止された。自宅のほかに「寮」すなわち別荘、控え家のたぐいをみだりに設けるのは贅沢であるというのであった。
それがために、くれ竹の根岸の里も俄かにさびれた。春来れば、鶯は昔ながらにさえずりながら、それに耳を傾ける風流人が遠ざかってしまった。後にはその禁令も次第にゆるんで、江戸末期には再び昔の根岸のすがたを見るようになったが、それでも文化文政の春を再現することは出来なかった。
魚八は根岸繁昌の時代からここに住んでいる魚屋《さかなや》で、一時は相当に店を張っていたが、土地がさびれると共に店もさびれた。それでも代々の土地を動かずに、小さいながらも商売をつづけていた。前にも云う通り、亭主は八兵衛、女房はお政、せがれは佐吉、この親子三人が先ず無事に暮らしている。佐吉はことし十九で、利口な若い者である。娘のお福は十八の年に浅草|田町《たまち》の美濃屋という玩具屋《おもちゃや》へ縁付いたが、亭主の次郎吉が道楽者であるために、当人よりも親の八兵衛夫婦が見切りをつけて、二十歳《はたち》の春に離縁ばなしが持ち出された。お福は一旦実家へ戻ったが、乳の出るのを幸いに、外神田の菊園へ乳母奉公に出て、あしかけ七年も勤めている。
弥助の報告は大体こんなことであった。
「それから美濃屋の方を調べたか」と、半七は訊《き》いた。
「調べました。ところが、亭主の次郎吉という奴は、女房に逃げられるような道楽者だけに、玩具屋の店は三年ほど前に潰してしまって、今じゃあ田町を立ち退いて、聖天下《しょうでんした》の裏店《うらだな》にもぐり込んで、風車《かざぐるま》や蝶々売りをやっているそうです。年は二十九で、見かけは色の小白い、痩形の、小粋な野郎だということですが、わっしがたずねて行った時にゃあ、商売に出ていて留守でした」
「その後に女房は持たねえのか」
「ひとり者です」と、弥助は答えた。「だが、近所の者の噂を聞くと、ふた月に一度ぐらい、年増《としま》の女がこっそりたずねて来る。それが先《せん》の女房のお福じゃあねえかと云うのです。なにしろ、その女が来ると、そのあと当分は次郎吉の野郎、酒なんぞ飲んでぶらぶらしていると云いますから、その女が小遣い銭でも運んで来るに相違ありませんよ」
「いい株だな。おめえ達も羨ましいだろう」と、半七は笑った。「その女は恐らく先の女房だろうな。親たちが不承知で無理に引き分けられた。女にゃあまだ未練があるので、奉公さきから抜け出して時々逢いに来る。しかしふた月に一度ぐらいはなかなか辛抱強い。お福という女も馬鹿じゃあねえと見えるな」
「そうでしょうね」
「そこで、その次郎吉という奴だが……。近所の評判はどうだ」
「褒められてもいねえが、悪くも云われねえ。まあ中途半端のところらしいようですね」
「中途半端じゃあ困るな。白雲堂にでもうらなって貰わねえじゃあ判らねえ」
半七は暫く思案していた。自分の膝の前に置いてある橙の「龍」の字が白雲堂の筆であるとすれば、けさ何者かが投げ込んで行った「武士の誓言」の一通も、同じ人の筆であるらしい。果たして同筆であれば、白雲堂はこの事件に係り合いがあるものと見做《みな》さなければならない。白雲堂の近所には次郎吉が住んでいる。その次郎吉の処へは菊園の乳母が通って来る。この三人のあいだには何かの糸が繋がっていて、菊園の子供のゆくえ不明事件が作り出されたのではあるまいか。他人《ひと》の秘蔵っ子をかどわかして、その親をゆすって金を取るという手は往々ある。乳母のお福は正直者であると云っても、以前の亭主に未練がある以上、それにそそのかされて何かの手伝いをしないとも限らない。
それにしてもその玉太郎という子供をどこへ隠したか。裏店住居の次郎吉や、床店《とこみせ》同様の白雲堂が、自分の家に隠しておくことはむずかしい。彼等のほかに共謀者が無ければならない。迂濶に騒ぎ立てては、その共謀者を取り逃がすばかりか、玉太郎の身に禍いするような事が出来《しゅったい》しないとも限らない。もう少し探索の歩みを進めて、かれらが犯罪の筋道を明らかにする必要があると半七は思った。
「じゃあ差しあたりは二人に頼んでおく。庄太は近所の次郎吉と白雲堂に気をつけてくれ。弥助の受け持ちは根岸の魚八だ。その魚屋にどんな奴らが出這入りをするか油断なく見張ってくれ」
めいめいの役割を決めて、半七は一旦ここを引き揚げた。帰り途に外神田へさしかかって、菊園の前を通り過ぎながら、横眼に店をちらりと覗くと、番頭の姿はそこには見えなかった。あずま屋の暖簾《のれん》をかけた隣りの菓子屋には、ひとりの女が腰をかけて、店の者と話している。それが菊園の乳母のお福らしいので、半七は立ち止まって遠目に窺っていると、女はやがて店を出て、足早に隣りの露路にはいった。その顔の色は蒼ざめていた。
それと入れかわって、半七はあずま屋へはいった。要りもしない菓子を少しばかり買って、彼は店の者に訊いた。
「今ここにいたのは菊園のお乳母《んば》さんかえ」
「そうです」
「菊園の子供はさらわれたと云うじゃあねえか」
この時、三十五六の女房が奥から出て来た。彼女は半七に会釈しながらすぐに話した。
「おまえさん、お隣りのことをもう御存じなのですか」
「そんな噂をちょいと聞きましたよ」と、半七は店に腰をおろした。「その子供はまだ帰って来ないのかね」
「いまもお乳母さんが来ましたが、まだ知れないそうで……。わたくし共も一緒だけに、なんだか係り合いで……」
「じゃあ、おかみさんも一緒だったのかえ」と、半七は空とぼけて訊いた。
「ええ。それだけに余計お気の毒で……。いまだに帰って来ないのを見ると、大かた攫われたのでしょうね。玉ちゃんは色の白い、女の子のような綺麗な子ですから、悪い奴に魅《み》こまれたのかも知れません」
「それで、ちっとも手がかりは無いのかね」
「それに就
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング