いて、こんな話を聞いたのですが……」と、女房は往来を窺いながら声を低めた。「きのうの八ツ半(午後三時)頃に、玉ちゃんが池《いけ》の端《はた》を歩いているのを見た人があるそうで……。一人じゃあない、カンカラ太鼓を売る人と一緒に歩いていたのが、どうも菊園の玉ちゃんらしかったと云うのです。八ツ半頃というと、天神さまの御境内でみんなが玉ちゃんを探していた頃ですから、それがやっぱり玉ちゃんだろうと思うのですが……」
「お乳母さんにそれを話したのかえ……」
「話しました。それでもお乳母さんはまだ疑うような顔をして、首をかしげていました。家《うち》の玉ちゃんは識らない大道《だいどう》商人《あきんど》のあとへ付いて行くような筈は無いと云うのです。そう云っても、子供のことですからねえ」
 自分の報告を菊園の乳母が信用しないと云って、不平らしく話した。
「あの乳母さん、小粋な人だが、色男でもあるのかね」と、半七は冗談らしく訊いた。
「そんなことは無いでしょう。堅い人ですから……」と、女房は打ち消すように云った。「玉ちゃんが見えなくなったので、御飯も食べないくらいに心配しているのです。あの人はまったく忠義者ですからねえ」
 誰に訊いてもお福の評判がいいので、半七はすこし迷った。それにしても玉太郎らしい男の児が太鼓売りと一緒に歩いていたと云うのは、一つの手がかりである。半七はいい加減に挨拶して、菓子屋の店を出た。
 十年ほど前から、誰が考え出したか知らないが、江戸には河豚《ふぐ》太鼓がはやった。素焼の茶碗のような泥鉢の一方に河豚の皮を張った物で、竹を割った細い撥《ばち》で叩くと、カンカラというような音がするので、俗にカンカラ太鼓とも云った。もとより子供の手遊びに過ぎないもので、普通の太鼓よりも遙かに値が廉《やす》いので流行り出したのである。誘拐者はこの河豚太鼓を餌《えさ》にして、七つの子供を釣り出したのであろうと、半七は想像した。
 お福の亭主の次郎吉は風車売りになっていると云うから、あるいは河豚太鼓なども売っているかも知れない。自分が売らなくとも、それを売る大道商人などと懇意にしているかも知れない。そんなことを考えながら、半七は三河町の我が家へ帰った。帰るとすぐに、かの橙を袂から取り出して、けさの落とし文と照らし合わせてみると、龍の字はたしかに同筆であった。
「はは、馬鹿な奴め。自分で陥し穽《あな》を掘っていやあがる」

     四

 そのあくる朝は晴れていたが、二月とは思われないような寒い風が吹いた。
「どうも悪い陽気だ。この春は雨が降らねえからいけねえ」
 そんなことを云いながら、半七は顔を洗っていると、菊園の番頭要助が早朝からたずねて来た。
「毎度お邪魔をいたして相済みませんが、実は親分さんのお耳に入れて置きたい事がございまして……」
「なにか又、出来《しゅったい》しましたかえ」
「乳母のお福がゆうべから戻りません。日暮れから姿が見えなくなりまして、どこへ行ったか判りませんので……」
「これまでに家《うち》を明けたことはありますかえ」
「いえ、あしかけ七年のあいだに、唯の一度も夜泊まりなどを致したことはございません。時が時でございますから、主人も心配いたしまして、もしや申し訳が無いなどと短気を起こしたのではあるまいかと……。お福ひとりではなく、若いおかみさんや近所の人達も一緒にいたのですから、たとい子供が見えなくなりましても、自分ばかりの落度《おちど》というのでも無いのですが、当人はひどく苦に病んで、きのうは碌々に飯も食わないような始末でしたから、もしや思い詰めて何かの間違いでも……。実は若いおかみさんも少し取りのぼせたような気味で、お福に万一の事があれば、お福ひとりは殺さない、自分も申し訳のために一緒に死ぬなどと申して居りますので、いよいよ心配が重なりまして……。何分お察しを願います」
 溜め息まじりに訴える番頭の顔を、半七は気の毒そうに眺めた。
「まったくお察し申します。そこで、わたしの調べたところじゃあ、お福の先《せん》の亭主は次郎吉という男で、今は浅草の聖天下《しょうでんした》にくすぶっているのだが、お福は時々そこへたずねて行くようなことはありませんかえ」
 それに対して、要助はこう答えた。お福は正直に勤める女といい、その宿も遠くない根岸にあるので、月に一度くらいは実家へ立ち寄ることを許してある。もちろん半日ぐらいで帰って来る。玉太郎はお福によく馴染んでいるので、宿へ行くときにも必ず一緒に連れて出る。そのほかには殆ど外出したことは無いから、恐らく浅草の先夫をたずねたことはあるまいと云うのである。
「坊やはお福によく馴染んでいるのですね」と、半七はまた訊《き》いた。
「生みの親よりも乳母を慕って居ります。お福の方でも我が子のように可
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