押さえるわけには行かないので、半七は先ず声をかけると、相手は果たして一目散に逃げ出した。その草履の足音が女や子供でなく、若い男であるらしいことを、半七はすぐに覚った。そうして、闇のなかでひそかに笑った。この事件は案外容易に解決すると思ったからである。前にも云う通り、往来の者の出来心では、その手がかりを見付け出すのが面倒であるが、これは菊園にかかり合いのある者に相違ない。番頭がここへ探索を頼みに来たのを知って、その様子を窺いに来たのであろう。よせばいいのに、そんな事をするから足が付くのだと、半七はおかしく思った。
その明くる朝である。半七が茶の間で朝飯を食っていると、入口の格子のあいだから何か投げ込んだような音がきこえた。半七に眼配《めくば》せをされて、女房のお仙が出てみると、沓脱《くつぬぎ》の土間に一通の封じ文が落ちていた。これもゆうべの一件のかかり合いであろうと想像しながら、半七はすぐに封を切ってみると、果たして次の文言が見いだされた。
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菊園の子息玉太郎は仔細あって拙者が当分預り置き候、本人身の上に別状なきことは武士の誓言《せいごん》相違あるまじく候、菊園一家の者に心配無用と御伝え被下度《くだされたく》、貴殿にも御探索御見合せ被下度候、先《まず》は右申入度、早々。
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それを読み終って、半七はまた笑った。成程その筆蹟は町人らしくないが、「武士の誓言」などと云って、いかにも武士の仕業らしく思わせようとするのは、浅はかな巧みである。ゆうべ忍んでいた奴も、今朝《けさ》この手紙を投げ込んだ奴も同じ筋の者に相違ない。こんな小細工をする以上、猶さら踏み込んで首根っこを押さえ付けてやらなければならないと思いながら、怱々に朝飯を食ってしまうと、子分の弥助が裏口からはいって来た。弥助という名が「千本桜」の維盛《これもり》に縁があるので、彼は仲間内から鮓屋《すしや》という綽名《あだな》を付けられていた。
「どうも御無沙汰をして、申し訳がありません」
「何をぶらぶら遊んでいるのだ。おい、鮓屋。早速だが、用がある。ここへ来い」
弥助を呼び込んで、半七は菊園の一件を話して聞かせた。
「こりゃあ人攫いや神隠しじゃあねえ。なにかの仔細があって、玉太郎を隠した奴があるのだ。菊園に恨みのある奴か、それとも菊園を嚇かして金にする料簡か、二つに一つだ
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