が自然と自分の畑へはいって行くんですが、それに就いてこんな事件がありましたよ。これなぞは江戸時代でなければ滅多に起こりそうもないことで、ほんとうのむかし話というのでしょうが、当世の方々にはかえってお珍らしいかも知れません。
 文久二年正月の事と御承知ください。この年は春早々から風が吹きつづいて、とかくに火事沙汰の多いのに困りましたが、本郷湯島の天神の社殿改築が落成して、正月二十五日の御縁日から十六日間お開帳というので、参詣人がなかなか多い。奉納の生《いき》人形や細工物もいろいろありましたが、その中でも漆喰《しっくい》細工の牛や兎の作り物が評判になって、女子供は争って見物に行きました。
 日は忘れましたが、なんでも二月の初めです。神田明神下の菊園という葉茶屋の家族が湯島へ参詣に出かけました。この葉茶屋は諸大名の屋敷へもお出入りをしている大きい店で、菊ゾノと読むのが本当だなどと云う人もありましたが、普通には菊エンと呼んでいました。店の者も菊エンと云っていたようです。葉茶屋ですからエンという方が本当かも知れません。その菊園の嫁のお雛、ひとり息子の玉太郎、乳母のお福、この三人のほかに隣りのあずま屋という菓子屋の女房と娘、あずま屋の親類の娘、あわせて六人連れで、近所のことですから午過ぎから出かけると、前にも云う通りの評判で、湯島の近辺は押し返されないような混雑、そのなかを潜《くぐ》って社前に参詣して、例の作り物などをひと通り見物している間に、息子の玉太郎のすがたが見えなくなったので、みんなも騒ぎ出しました。
 お雛は十八の年に菊園の嫁に来て、二十歳《はたち》の暮に玉太郎を生みましたが、乳の出がどうもよくないので、お福という乳母を置いて育てて来て、玉太郎はことし七つになっていました。ひとり息子ですから、家《うち》じゅうで可愛がっている。乳母のお福も気立てのいい女で、わが子のように玉太郎を可愛がっている。その玉太郎の姿を見失ったので、大騒ぎになったのも無理はありません。
 こういう混雑の場所で、子供が親にはぐれて迷児《まいご》になるのは珍らしくないことですが、親たちの身になれば騒ぐのも当然で、お雛もお福も気ちがいのようになって騒ぐ。連れのあずま屋の女たちも黙って見ちゃあいられないから、これも一緒になって探し廻る。遠くもないところであるから、自分ひとりで帰ったのかも知れないと、お福
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