刻み煙草の荷をかついで、諸藩邸の勤番小屋や中間部屋、あるいは所々の寺々などへ売りに行くのである。彼は関口屋の長屋に住んでいるばかりでなく、商売物の煙草を関口屋から元値で卸《おろ》して貰っているので、朝に晩に親しく出入りをしていた。
大吉と年造とは壁ひとえの相長屋で、ひとり者同士の仲よく附き合っていたので、年造がゆうべから病気に罹《かか》ると、彼は商売を休んで看病した程であるから、今夜の通夜には勿論詰めかけていた。残暑の強い時節といい、閉め込んで置いては疫病の邪気が籠《こも》るというので、狭い家内は残らず明け放してあった。
その夜の五ツ半(午後九時)頃である。露路のなかに犬の吠える声がきこえるので、大吉は家内から伸びあがって表を覗くと、井戸のそばに白い影が見えた。家内の灯《ひ》のひかりが表まで流れ出ているので、その影の正体もおおかたは判った。それは白地の単衣《ひとえ》を着た少女である。少女は関口屋の裏口に立って、木戸のあいだから内を窺っているらしかった。大吉は自分の隣りに坐っている相長屋の甚蔵の袖をひいてささやいた。
「あの子はどこの子だろう」
甚蔵も伸びあがって表をのぞくと、犬はつづけて吠えた。少女は犬を恐れるように木戸のそばを離れて、しずかに露路の外に立ち去ったが、草履を穿《は》いていたと見えて、その足音はきこえなかった。
「見馴れない子ですねえ」と、大吉は又ささやいた。
「むむ、ここらの子じゃあ無いようだ」
とは云ったが、甚蔵は深く気にも留めなかった。大吉はなんだか気になると見えて、そこにある下駄を突っかけて露路の外まで追って出たが、少女の姿はもう見えなかった。
「あの子はどこの子だろう」
大吉はまだ頻りに考えていたが、他の人々は甚蔵と同様、それに格別の興味も注意もひかなかったので、話はそのままに消えてしまった。流行病《はやりやま》いであるから、あしたは早朝に死体を焼き場へ送る筈であったが、この頃は葬式《とむらい》が多いので棺桶が間に合わない。よんどころなく夕方まで延ばすことにして、係り合いの人々は怖るべきコロリの死体を守りつつ一日を暮らした。
この日の午後である。三十前後の男が関口屋の店さきに立った。
「ここの裏に年造という大工がいますかえ」
「その年造さんはコロリで死にました」と、店の者が答えた。
「コロリで死んだ」と、その男はすこし慌てたように云った。「そりゃあ飛んでもねえ。そうしていつ死んだね」
「きのうの午過ぎに……」
「やれ、やれ」と、男は舌打ちした。
葬式はまだ済まないというのを聞いて、男は急いで露路のなかへ駈け込んだ。彼は線香の煙りのただよう門口《かどぐち》から声をかけた。
「もし、年造は死んだのかえ」
「きのう亡くなりました」と、入口にいた大吉が答えた。「どうぞこちらへ……」
悔みに来たと思いのほか、男はつかつかと内へはいって、六畳の隅に横たえてある若い大工の死体をながめた。彼は忌々《いまいま》しそうに舌打ちした。
「畜生、運のいい野郎だ」
コロリで死んで運がいいとは何事かと、一座の人々はおどろいた。いずれも呆気《あっけ》に取られたように男の顔を見つめていると、その疑いを解くように彼は説明した。
今から四日前の晩に、湯島天神下の早桶屋伊太郎が何者にか殺された。前にも云う通り、このごろはコロリの死人が多いので、どこの早桶屋も棺を作るのに忙がしく、自分たちの手では間に合わないので、大工や桶屋などを臨時に雇い入れて手伝わせた。一人前の職人は棺桶などを作ることを嫌ったが、腕のにぶい者や若い者は手間賃《てまちん》の高いのを喜んで、方々の早桶屋へ手伝いに行った。ここの家《うち》の年造もその一人で、先日から彼《か》の伊太郎の店に働いていたのである。
伊太郎が何者にか殺されたのは、その金に眼をつけたものと認められた。早桶屋に取っては、疫病神は福の神で、商売繁昌のために伊太郎は意外の金儲けをした。それが禍《わざわ》いとなって、伊太郎は殺され、女房は傷を負った。詮議の末に、その盗賊の疑いは雇い大工の年造にかかって、召し捕りに来て見ると此の始末である。召し捕られて重罪に処せられるよりも、コロリで死んだが優《ま》しであろう。運のいい野郎だ、と云われたものも無理はなかった。
召し捕りに来て失望した男は、神田の半七の子分の善八であった。こうなっては空《むな》しく引き揚げるのほかはなかったが、それでも年造の平素の行状や、死亡前の模様などを一応取り調べて置く必要があるので、年造と最も親しくしていたと云う隣家の大吉が表へ呼び出された。善八は井戸端の柳の下に立って、暫く大吉を調べて帰った。
「おどろいたねえ」
「人は見かけに因らねえものだ」
「年公もちっとは道楽をするが、まさかにそんな恐ろしい事をしようとは思わなかった」
コロリで死んだ年造に対して、人々の同情が俄かにさめた。まったく運のいい野郎だと云うことになってしまった。さりとて今更その死骸を捨てて帰るわけにも行かないので、人々は迷惑ながら日の暮れるのを待っていると、暮れ六ツ頃に棺桶をとどけて来たので、すぐに死体を押し込んで担《かつ》ぎ出した。
店子《たなこ》が死んだのであるから、家主《いえぬし》も見ていることは出来ない。関口屋でも主人の名代《みょうだい》として店の者に送らせる筈であったが、それがコロリの葬式《とむらい》であるばかりでなく、本人は恐ろしい罪人であるという噂を聞いて、店の者らは送って行くことを嫌った。それを無理にとは云いかねて、関口屋でも少し困っていると、女中のお由が行こうと云い出した。
「お前は女だからお止しなさいよ」と、お琴は一応止めた。しかし誰か行かなければ悪いから私が行きますと云って、お由がとうとう行くことになった。
「お由さんはコロリが怖くないのかしら」
「なに、大さんと一緒に行きたいんだよ」
ほかの女中たちはささやいていた。煙草屋の大吉は二十三四で、色白の華奢《きゃしゃ》な男であった。
秋の宵の暗い露路から提灯の火が五つ六つ寂しくゆらめいて、年造の棺桶は送り出された。五ツを過ぎたころにお由は帰って来て、千住《せんじゅ》の焼き場には棺桶が五十も六十も積んであるので、とてもすぐに焼くことは出来ない。今夜はそのままに預けて置いて、七日か八日の後に骨揚《こつあ》げに行く筈であると云った。コロリのために焼き場や寺が混雑することはかねて聞いていたが、いま又そんな報告を聞かされて、関口屋の一家も暗い心持になった。
そのなかでも、更にお琴の心を暗くする事があった。お由はおかみさんにそっと話した。
「ゆうべお通夜をしている時に、白地の着物を着た女の子が裏の木戸から覗いていたそうです」
「うちの裏口を覗いていたのかえ」と、お琴は顔の色を変えた。
「煙草屋の大さんが見たそうです。甚さんも見たと云います」
かむろ蛇、八つ手の葉、それにおびえ切っている矢さきへ、又もやこの話を聞かされて、お琴は眼がくらみそうになった。白地の着物を着た女の子は、明神山から降りて来たらしい。お袖死ぬという、その呪われた運命がいよいよ迫って来たように思われた。
今まではお袖にもお由にも口留めをして、自分ひとりの胸におさめていたが、お琴ももう堪まらなくなって、夫の次兵衛に一切《いっさい》を打ち明けた。次兵衛は決して愚かな人物ではなく、商売の道にも相当に長《た》けていて、関口屋の古い暖簾《のれん》を傷つけないだけの器量を具えていたが、彼は非常に神仏を信仰した。その信仰が嵩《こう》じて一種の迷信者に似ていた。お琴が明神山の一条を秘《かく》していたのも、迂濶にそれを口外すれば夫をおどろかすに相違ないと懸念《けねん》したからであった。
果たして次兵衛はおどろいた。彼は涙をうかべて嘆息するのほかはなかった。かむろ蛇に呪われた娘の生命《いのち》は、しょせん救われぬものと諦めているらしかった。
三
八月の晦日《みそか》から俄かに秋風が立って、明くる九月の朔日《ついたち》も涼しかった。
「さすがに暦《こよみ》は争われねえ。これでコロリも下火《したび》になるだろう」
女房のお仙と話しながら、半七が単衣《ひとえ》を袷《あわせ》に着かえていると、早朝から善八が来た。
「急に涼しくなりました」
「今も云っているところだが、善さん、コロリはどうだね」と、お仙は云った。
「まだ流行《はや》っていますよ」と、善八は答えた。「涼風《すずかぜ》が立ってもすぐには止みますめえ。七月から八月にかけて随分殺されましたね」
「悪い人の殺されるのは仕方がないが、善い人も殺されるから困るよ」
「わっしらの商売から云うと、悪い人の殺されるのも困る。折角お尋ね者を追いつめて、さあという時に相手がコロリと参ってしまわれちゃあ、洒落《しゃれ》にもならねえ。現にこのあいだの湯島の一件……。ようやく突きとめて小石川まで出張って行くと、大工の奴はコロリ。実にがっかりしてしまいますよ」
云いかけて、善八はまた声を低めた。
「もし、親分。今の小石川ですがね。そこで又すこし変な噂を聞き込みました」
「変な噂とはなんだ」
お仙が立って行ったあとで、半七は善八と差し向かいになった。
「御承知の通り、人殺しの大工は水道町の煙草屋の裏に住んでいました」と、善八は話しつづけた。「その家主の煙草屋は関口屋という古い店で、身上《しんしょう》もよし、近所の評判も悪くない家《うち》です。そこの女中のお由という若い女が二、三日前に死にました」
「それもコロリか」と、半七は訊《き》いた。
「いや、コロリじゃあねえ、まあ、頓死のようなわけで……。関口屋でもすぐに医者を呼んだが、もう間に合わなかったそうです。その死に方がなんだか可怪《おか》しいというのですが、関口屋じゃあ店の者や女中に口留めをして、なんにも云わせねえ。それだけに猶更いろいろの噂が立つわけです。世間でかれこれ云うばかりでなく、お由の親許《おやもと》でも不承知で、娘の死骸を素直に引き取らない。コロリの流行《はや》る時節に、死骸をいつまでも転がして置くわけには行かねえので、名主や五人組が仲へはいって、ともかく死骸だけは引き取らせることにしたが、その後始末が付かねえで、いまだにごたごたしているそうですよ」
「お由という女の親許では、なぜ不承知をいうのだ。死骸に何か怪しいことでもあるのか」
「どうもそうらしい。それが又、変な話で……。近所の噂じゃあ、氷川の明神山のかむろ蛇に祟られたのだそうで……。そんな事が本当にありますかね」
「氷川のかむろ蛇……」と、半七も考えた。「昔からそんな話を聞いてはいるが、噂か本当か請け合われねえ。そうすると、そのお由という女は明神山の蛇に出逢ったのか」
「関口屋の女房と娘とお由と三人連れで、氷川へ参詣に行って、その帰り路で出逢ったそうで……。蛇じゃあねえ、切禿《きりかむろ》の女の子だそうですが……」
「女の子か」と、半七は又かんがえた。「お由は蛇に祟られて頓死したというのだな。頓死にもいろいろあるが、どんな死に方をしたのだ」
「それにもいろいろの噂があるのですが、わっしがお千代という女中をだまして聞いたところじゃあ、まあ、こんな話です」
関口屋ではお由、お千代、お熊という三人の女を使っているが、お由は仲働きで、他の二人は台所働きである。その晩はまだ残暑が強いので、裏口の空地にむかって雨戸を少し明けて、四畳半の女部屋に一つの蚊帳《かや》を吊って、三人が床をならべて寝た。いずれも若い同士であるから、正体もなく眠っていると、夜なかになってお由が急に騒ぎ出した。両側に寝ているお千代とお熊もおどろいて眼をさますと、お由は小声で「蛇……」と叫んだらしくきこえたので、二人はいよいよ驚いた。
お千代もお熊も夢中で蚊帳をころげ出して、台所から行燈《あんどん》をつけて来ると、お由は寝床の上に蜿打《のたう》って苦しんでいる。二人はあわてて店の男たちを呼び起こすと、その騒ぎを聞きつけて、主人夫婦も起きて来た。小僧は出入りの医者を呼びに行った。
何分にも夜なかの事
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