であるので、この場合、さすがにふるえてばかりもいなかった。彼女は小声で主人に注意した。
「見付かると大変です。逃げましょう」
 幸い少女は正面を向いていないので、三人はその横顔を見ただけである。抜き足をして駈け抜けたらば、或いは覚られずに逃げおおせることが出来るかも知れない。しかも駈け出しては足音を聴かれる虞《おそ》れがあるので、お琴はまた二人にささやいて、息の声さえも洩れないように、両袖で口を掩った。
 三人は足音を忍ばせて、この杉木立の前を通り抜けようとする時、お袖が最も恐怖を感じていたのかも知れない、すくみ勝の足をひき摺って行くうちに、木の根か石につまずいて、踏み留める間もなしにばったりと倒れたので、お琴もお由もはっ[#「はっ」に傍点]とした。もうこうなっては、足音などを偸《ぬす》んではいられない。半分は夢中でお袖をひき起こして、お琴とお由が左右の手をとって、むやみに引き摺りながら駈け出した。山の降り口は石逕《いしだたみ》になっている。その坂路を転げるように逃げ降りて、寺の本堂前まで帰り着いて、三人はまずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。お袖は顔の色を失って、口も利かれなかった。
 お琴は寺男に水を貰って、お袖に飲ませた。自分たちも飲んだ。山を降りると、急に暑くなったように思われたので、お琴は手拭を絞って顔や襟の汗を拭いた。しかも山のなかで怪しい少女に出逢ったことは、寺男にも話さなかった。
「家《うち》へ帰っても黙っておいでなさいよ。誰にも決して云うのじゃありませんよ」と、お琴はお由に固く口留めをした。
 三人は不安な心持で関口屋の店へ帰った。取り分けてお袖はぼんやりして、その晩は夕飯も碌々に食わなかった。
 お琴はきょうの一条を夫の次兵衛にも打ち明けなかった。夫に余計な心配をかけるのを恐れたばかりでなく、自分もそれを口にするのが何だか恐ろしいように思われたからである。翌日も再びお由に注意して、かならず他言《たごん》するなと戒めた。三人は後をも見ずして逃げて来たのであるから、かの少女が自分たちを見つけたかどうだか一向に判らなかった。覚られなければ幸いであると、お琴は心ひそかに祈っていた。
 その頃、誰が云い出したのか知らないが、コロリの疫病神を攘《はら》うには、軒に八つ手の葉を吊《つる》して置くがいいと云い伝えられた。八つ手の葉は天狗の羽団扇《はねうちわ》に似て
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