れた。芒の葉に切られて、敵も味方も、頬や手足に幾ヵ所の擦《かす》り疵を負った。二人が早縄をかけて立ち上がる時、犬は半七らを導くように吠えて走るので、芒のあいだを付いてゆくと、そこには芒が倒れて乱れているひと坪ほどの空地が見いだされた。新らしく掘り返された土は柔らかく、そこに何物をか埋めてあるように見られたので、大吉の鍬をとって掘り起こすと、土の下には若い大工の死骸が横たわっていた。

  六

「これで捕物は終りました」と、半七老人は云った。「捕物で怪我をしたことは度々ありますが、その時のように芒のお見舞を受けたことはありません。当分は顔や手足がひりひりして、湯に入るにも困りましたよ」
「わたしも曾て石橋山組打の図に俳句を書いてくれと頼まれて『真田股野くらがりの芒つかみけり』という句を作ってやったことがありますが、まったく芒のなかの組打ちは難儀でしょうね」と、わたしは云った。
「うっかりすると眼を突かれますからね」と、老人は笑った。「そこで例の種明かしですが、何からお話し申しましょうかね」
「鋤を持って出た男は何者です」
「それは万養寺の寺男で、名は忠兵衛……梅川と道行《みちゆき》でもしそうな名前ですが、年は五十ばかりで、なかなか頑丈な奴でした。生まれは上方《かみがた》で、大吉の親父です。こいつも昔は道楽者で、せがれの大吉が小綺麗に生まれたのを幸いに、子どもの時から陰間《かげま》茶屋へ売りました。江戸の陰間茶屋は天保度の改革で一旦廃止になったのですが、その後も給仕男という名義《めいぎ》で営業していました。男娼《かげま》のことは余談にわたりますから、詳しくは申し上げませんが、なにしろ女と違って、子供時代が売り物ですから、十七八にもなればもうお仕舞いです。男娼の揚がりは馴染の客……多くはお寺さんですが、それに幾らかの元手を出して貰って小商いでも始めるか、寺侍の株でも買ってもらうか、又は小間物や煙草の行商になる。お寺にむかし馴染があるので、煙草を売って歩くのが多かったようです。大吉もその一人で、関口屋の長屋に住んで煙草屋になっていたんです。万養寺の住職も大吉のむかしの馴染で、その関係から親父の忠兵衛を引き取って、自分の寺男に使っていたと云うわけです」
「そこで、問題のかむろ蛇の一件ですが、それは大吉や次右衛門の狂言ですか」
「そうです、そうです。御承知の通り、次右衛門は総
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