に、五百両でも千両でも出してやります」
さりとて千両は法外であると云うので、仲裁人らは再び交渉をすすめて、六百両までに相場をせり上げると、次右衛門もここらが見切り時と思ったらしく、渋々ながら承諾した。しかも大金であるから迂濶に渡すことは出来ない。後日《ごにち》のために、次右衛門から今後異論がないという一札《いっさつ》を入れさせて、町役人も立ち会いの上で引き渡しを済ませた。
これらの事件の蔭には、善八の眼が絶えず光っていた。半七も一々その報告を聞いていた。さしあたりは何処へむかって手を着けることも出来なかったが、事件の筋道はだんだんに明るくなって来るように思われた。
五
九月二十日の夜なかに、下谷坂本の煙草屋次右衛門は何者にか殺された。その怪しい物音を聞きつけて、近所の者共が駈け付けた頃には、相手はもう姿を隠していた。次右衛門は刃物で喉《のど》と胸を刺されていたが、微かな息の下で云った。
「大……年……年造……」
まだ何か云いたそうであったが、それぎりで息は絶えた。勿論、早速に訴え出て検視を受けたが、下手人は遺恨か喧嘩か物奪《ものと》りか、すぐには判らなかった。善八がそれを聞き込んだのは明くる日の朝で、半七を案内して下谷へ乗り込んだのは四ツ(午前十時)頃であった。二人は自身番へ寄って、ひと通りの報告を聞いて、更に家主の案内で次右衛門の煙草屋へ踏み込んだ。二間|間口《まぐち》の小さい店で、奥は六畳と二畳のふた間、二階は四畳半のひと間である。
女房には死なれ、娘は奉公に出ているので、次右衛門は当時ひとり者である。その裏に下駄の歯入れが住んでいて、その婆さんのお酉《とり》というのが朝晩の手伝いに来ていたと、家主は説明した。
「じゃあ、そのお酉というのを、ともかくも呼んで貰いましょう」
呼ばれて、半七の前に出て来たのは、五十四五の正直そうな老婆であった。それと一緒に隣りの荒物屋の亭主も呼ばれた。亭主は喜兵衛といって、ゆうべ一番さきに駈け付けた男である。お酉と喜兵衛の申し立てによると、次右衛門は道楽者の揚がりだけに、近所の人達にも愛想がよく、これまで別に悪い噂もなかった。場所も悪し、店も小さいので、碌々の商売もないのに、毎日かなりの酒を飲むので、暮らし向きは楽でなかったらしい。それでも娘に婿を取れば、自分は左団扇《ひだりうちわ》で暮らせるなどと大きなことを云
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