であるから、医者もすぐには来なかった。お由は医者の来る前に死んでしまった。その死因は医者にもはっきり判らないのであるが、お由が「蛇……」と云ったのから想像して、恐らく蝮《まむし》か何かの毒蛇に咬まれたのであろうと云った。その当時はここらは森や岡も多く、武家屋敷の空地や草原も多いのであるから、蝮や蛇もめずらしくない。明けてある雨戸のあいだから這い込んで来て、運の悪いお由がその生贄《いけにえ》になったのであろう。なにしろ其の正体を見とどけなければ安心が出来ないので、若い者も小僧も総掛かりで毒蛇のゆくえを詮策したが、家内《かない》は勿論、庭にもそれらしい姿は見いだされなかった。
こうして奉公人らが立ち騒いでいるあいだに、主人側は比較的冷静であった。主人の次兵衛も女房のお琴も殆ど無言であった。娘のお袖は奥に隠れたままで顔も出さなかった。毒蛇狩りが一旦片付いた後、次兵衛は医者を奥へ呼び入れて、女房と一緒にかむろ蛇の一条を話した。それが店の者にも洩れて、自然にうわさの種を播《ま》くことになったのである。
これによって考えると、主人らの冷静は不人情というのでなく、余儀なき運命と諦めている為であったらしい。お由ばかりでなく、お琴もお袖も同じ運命に陥らないとは限らない。お由ひとりが人身御供《ひとみごくう》になって、それでかむろ蛇の祟りが消えるのか、三人ながら同じ祟りを受けるのか、そんなことは誰にも判らない秘密である。主人らは冷静というよりも、強い恐怖にとらわれて、一時は碌々に口も利かれなかったのであろう。しかもお由の親許では、その態度を不人情と難じた。
「いくら不人情にしたところで、親許で娘の死骸を引き取らねえというのは判らねえ」と、半七は云った。
「関口屋で殺したとでも云うのか」
「まさかに殺したとも云いませんが、寝床で蝮に咬まれたなんぞと云うのは、どうもまじめに聞かれねえ。ましてかむろ蛇なんぞは作り話だか何だか判らねえ。大事の娘が死んだ以上、どうして死んだのか確かに判らねえでは、迂濶《うかつ》に死骸を引き取ることは出来ねえと、こう云うのだそうで……。関口屋でも相当の弔い金は出す気でいるのだが、親の方じゃあ五百両か千両も取るつもりでいるらしいので……」
「五百両か千両……」と、半七もすこし驚かされた。「人間の命に相場はねえと云っても、奉公人が死んだ為に五百両も千両も取られちゃあ
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