らいは持つだろうと半七は云った。ここらの宮芝居は明るいうちに閉場《はね》ることになっている。殊に照之助は虎狩に出るだけの役らしいので、ぐずくずしていると帰ってしまうかも知れないと、二人は鳳閣寺へ急いで行くと、桶屋の源次が門前に待っていた。
二人を見ると、源次は駈けて来て、顔をしかめながら訊いた。
「さっき庄太さんに逢いましたが、又ほかに変なことがあるので……」
「又ほかに……。何が始まった」と、半七は催促するように訊《き》いた。
「ここの小屋の様子を探ってみると、虎を勤める奴は確かに市川照之助ですが、きょうは楽屋に来ていません。呼び物の虎が出て来ない上に、錦祥女を勤める坂東小三津という女役者も急病だというので、きょうは舞台を休んでいるのです。表向きは急病と云っているが、実は其のゆくえが知れないので、芝居の方じゃあ大騒ぎをしているそうです。時が時だけに、少し変じゃあありませんかね」
「むむ。それも面白くねえな」と、半七は舌打ちした。「そこで小三津の家《うち》はどこだ」
「小三津は師匠の小三の家にいるのです。小三の家は善光寺門前です」
「照之助の家は……」
「照之助は兄きの岩蔵と一緒に、若松町の裏店《うらだな》に住んでいます。兄きも役者で市川岩蔵というのですが、芝居が半分、博奕が半分のごろつき肌で、近所の評判はよくねえ奴です。おふくろはお金といって、常磐津の師匠の文字吉の家《うち》へ雇い婆さんのように手伝いに行っていますが、こいつもなかなかしっかり[#「しっかり」に傍点]者のようです。実は照之助の家を覗きに行ったのですが、兄きも弟も留守で、家は空《から》ッぽでした」
「岩蔵はどこの小屋に出ているのだ」
「弟と一緒に、ここの芝居へ出ていたのですが、それに就いて何か面倒が起こって、この二、三日は休んでいるようです」
これで唐人飴の謎も半分は解けたように、半七は思った。最初に発見されたのは、市川岩蔵の腕である。二度目の腕は誰か判らないが、それを斬ったのは市川照之助である。照之助は兄のかたき討ちに、相手の腕を斬ったらしい。そうして、同じ唐人の衣裳の袖につつんで、同じ場所へ捨てたらしい。二度目の腕の主《ぬし》は、庄太が外科医を調べて来れば、大抵は知れる筈である。
唯わからないのは、最初からここらに立ち廻っている疑問の唐人飴屋の正体である。もう一つは、坂東小三津のゆくえ不明である。師匠の小三と折り合いが悪くて、結局無断で飛びだしたのか。或いは別に仔細があるのか。常磐津の文字吉はいっさい無関係であるのか。雇い婆のお金は照之助兄弟の母である以上、この事件に無関係であるとは思われない。それらの秘密がはっきりしたあかつきでなければ、半七も迂濶に手を入れることが出来なかった。
「なにぶん場所が悪い」と、半七はつぶやいた。
町方の半七らに取っては、まったく場所が悪いのである。この事件の関係者は多く寺門前に住んでいる。現にこの芝居小屋も寺内にある。寺内は勿論、寺門前の町屋《まちや》はすべて寺社方の支配に属しているのであるから、町奉行所付きの者が、むやみに手を入れると支配違いの面倒がおこる。十分の証拠を挙げて、町奉行所から寺社奉行に報告し、その諒解を得た上でなければ、町方の者が自由に活動することを許されない。それを付け目にして、寺門前には法網をくぐる者が往々ある。その欠陥を承知していながら、先例を重んずる幕府の習慣として、江戸を終るまであらためられなかった。
庄太の戻って来るのを待つあいだ、三人が寺門前に突っ立ってもいられないので、源次だけをそこに残して、半七と亀吉は百人町の表通りをぶらぶらと歩き出した。ほかに行く所もないので、二人はきのうの蕎麦屋へはいった。
五
きのうの今日であるから、蕎麦屋の亭主も半七に余計なお世辞などを云っていた。きょうは亀吉が一緒であるので、半七も酒を一本注文した。
「ここらにゃあ顔役とか親分とかいうものはいねえかね」と、半七は訊いた。
「ここらのことですから大していい顔の人もいませんが、原宿の弥兵衛という人があります」と、亭主は答えた。「子分といったところで五、六人ですが、ここらでは相当に幅を利かせているようです」
「浅川の芝居に出ている岩蔵は、弥兵衛の子分かえ」
「岩蔵さんは役者ですから、子分というわけでもないでしょうが、あの人もちっと悪い道楽があるので、弥兵衛さんのところへも出這入りをしているようです」
「やかん平というのは違うのかえ」と、亀吉は口を出した。
「違います。やかん平さんは一昨年《おととし》なくなりました。あの人は町内の鳶頭《かしら》で、本名は平五郎、あたまが禿げているので薬罐平《やかんべえ》という綽名を付けられたのですが、あの人はまことに良い人で、町内の為にもよく働いてくれました。原宿の弥兵衛は別な人で、これは薬罐平さんのようには行きません。それに、親分よりも子分の角兵衛というのが幅を利かして……。本名は角蔵とか角次郎とかいうのでしょうが、ここらではみんなが角兵衛と云っています。その角兵衛さんがあんまり評判のよくない人で……」
亭主がここまで話して来た時に、暖簾《のれん》の外から覗き込んだのは庄太であった。亭主が眼のさきにいるのを見て、彼は半七を表へ呼び出した。
「どうだ、判ったか」と、半七は小声で訊いた。
「わかりました」と、庄太も小声で云った。「この近所に外科医はねえので、だんだん探して宮益《みやます》坂まで行きました。岡部向斎という医者で、何か口留めされていると見えて、最初はシラを切っていましたが、こっちが御用の風を匂わせたので、とうとう正直に云いました。どこで斬られたのか知らねえが、ゆうべの四ツ過ぎに、原宿の弥兵衛の子分が怪我人をかつぎ込んで来た。怪我人は弥兵衛の一の子分の角兵衛という奴で、左の腕を斬り落とされていたそうです。多分喧嘩でもしたのだろうが、まあ死ぬような事はあるまいと云っていました」
二度目の腕の主《ぬし》は、今や亭主の噂にのぼった角兵衛であった。斬られた角兵衛は秘密にしているにしても、人の腕を斬って往来へ投げ捨てて、世間を騒がした照之助を不問に付《ふ》して置くわけには行かない。この上はいよいよ照之助のありかを詮議しなければならないが、何をするにも寺社方の諒解を得て置かなければ不便であるので、その後の仕事を庄太と亀吉にたのんで、半七は再びここを引き揚げることにした。
彼はその足で八丁堀同心の屋敷へまわって、いっさいの経過を報告して、町奉行所から寺社方へ通達の手続きを頼んだ。それから神田の家へ帰ると、その夜更けに亀吉と源次も帰って来た。
かれらの報告によると、角兵衛は親分の弥兵衛の家で傷養生をしている。岩蔵はどうしているか判らないが、常磐津の師匠の家に寝込んでいるのではないかと思われるのは、おふくろのお金が赤坂まで金創の塗り薬を買いに行ったことである。師匠の文字吉は風邪を引いたと云って稽古を断わり、湯にも行かず引き籠っていると云うのである。
「そこで、飴屋はどうした」
「飴屋は一日来ませんでした」と、亀吉は云った。「近所の者は、きょうに限ってあの飴屋の来ないのは不思議だ。今度こそはあの飴屋の腕だろうなぞと噂をしていますよ」
「きょうは来ねえか。二度あることは三度ある。今度はおれの番だと思ったわけでもあるめえが、なにしろ変な奴だな」と、半七も首をかしげていた。「それはまあそれとして、さしあたりは照之助の片を付けてしまおう。寺社の方へも断わって置いたから、もう遠慮はいらねえ。どこへでも踏ん込んで引き挙げるのだ」
そうなると、源次は下っ引で、蔭で働く人間であるから、表向きの捕物に顔は出せない。半七は亀吉だけを連れて行くことにして、その晩は別れた。夜半《よなか》から雨がふり出した。
青山には庄太が出張っている。こちらからは半七と亀吉が出てゆく。三人がかりで立ち騒ぐほどの大捕物でもないと思ったが、それからそれへと糸を引いて、また何事が起こらないとも限らないので、ともかくも三人が手分けをして働くことになった。
明くれば四月十四日、ゆうべの雨も今朝はうららかに晴れたので、半七と亀吉は早朝から青山へ出向いた。ここらの青葉の色も日ましに濃くなって、けさも時鳥《ほととぎす》が幾たびか啼いて通った。
鳳閣寺の門前には庄太が待っていた。
「お早うございます」と、彼は半七に挨拶して、寺の奥を指さした。「きょうは休みです。小三津のゆくえがまだ知れねえ。ほかにも休みの役者がある。座頭の小三も気を腐らして、血の道が起こったとか云って、これも楽屋入りをしねえ。そんなわけで芝居はわや[#「わや」に傍点]になってしまって、ともかくもきょうは休みの札《ふだ》を出しました。折角評判のいい芝居がめちゃめちゃになって、小屋の連中はおおこぼしですよ」
「そうか」と、半七はうなずいた。「なにしろ常磐津の師匠という奴が気になってならねえ。まずあすこを調べることにしよう」
三人は連れ立って、久保町の実相寺門前へゆくと、文字吉の家では何か女の罵るような声がきこえた。近寄って覗くと、四十近い女役者が弟子らしい若い女二人を連れて、格子のなかで押し問答をしている。その相手になっているのは雇い婆のお金である。双方ともに気が強いらしく、負けず劣らずに云い合っていた。
「あの年増が小三ですよ」と、庄太は小声で教えた。
「さあ、隠さずに小三津を出して下さい」と、小三は云った。「師匠が弟子を連れに来たのに不思議は無いじゃありませんか」
「不思議があっても無くっても、当人はいませんよ。大かた師匠を見限って、ほかの小屋へでも行ったのでしょう。ここの家《うち》へばかり因縁を付けに来たって仕様がない。おまえさんも国姓爺を勤める役者だ。唐《から》天竺《てんじく》まで渡って探して歩いたらいいでしょう」と、お金はせせら笑っていた。
喧嘩の火の手はいよいよ強くなるばかりである。小三は舞台の和藤内をそのままに、大きい眼を剥《む》いて又呶鳴った。
「シラを切っても、いけないいけない。あたしはちゃんと証拠を握っているのだ。ここの師匠は化けもんだ、女のくせに女をだまして、金も着物もみんな捲きあげて、仕舞いには本人の体《からだ》まで隠して……。並大抵のことじゃあ埓があかないから、きょうは芝居を休んで掛け合いに来たのだ。もうこうなりゃあ出るところへ出て、拐引《かどわかし》の訴えをするから、そう思うがいい」
「どうとも勝手にするがいいのさ。白い黒いはお上《かみ》で決めて下さるだろう」
「知れたことさ。そのときに泣きっ面をしないがいい。さあ、もう行こうよ」
小三は弟子たちをみかえって表へ出ると、半七はふた足三足追いかけて呼び留めた。
「おい、師匠。待ってくんねえ」
六
「長くなるから、ここらでお仕舞いにしましょうかね」と、半七老人は云った。
これが老人のいつもの手で、聴く者を焦《じ》らすかのように、折角の話を中途で打ち切ってしまうのである。その手に乗ってはたまらないと、わたしは続けて訊いた。
「まだ半分で、なにも判りませんよ」
「判りませんか」
「判りませんよ。一体それからどうなったんです」
「小三は自分の弟子を隠された口惜《くや》しまぎれに、何もかも話しました。それを聞くと、常磐津文字吉という師匠は不思議な女で、酒屋の亭主を旦那にしているが、ほかに男の弟子は取らないで、女の弟子ばかり取る、それには訳のあることで、本人は女のくせに女をだますのが上手。ただ口先でだますのでは無く、相手の女に関係をつけて本当の情婦《いろ》にしてしまうのです。こんにちではなんと云うか知りませんが、昔はそういう女を『男女《おめ》』とか『男女さん』とか云っていました。もちろん、滅多にあるものじゃあありませんが、たまにはそういう変り者があって、時々に問題を起こすことがあります。文字吉は浄瑠璃が上手というのでも無いのに、女の弟子ばかり来る。殊に囲い者や後家さん達がわざわざ遠方から来るというのを聞いて、わたくしは少し変に思って、もしやと疑っていたら
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