しゅったい》に及びました」
「矢口渡ですか」
「そうです、そうです。矢口渡か、カチカチ山です」と、老人はうなずいた。「わたくしは現場に居合わせたわけでもありませんから、見て来たようなお話は出来ませんが、帰る時も前と同様に、供の男たちは徒歩《かち》で陸を帰り、主人側三人と女中三人は船で帰ることになって、船頭の千太が船を漕いで、小名木《おなぎ》川をのぼって行きました。御承知の通り、深川は川の多いところですが、この時は小名木川の川筋から高橋、万年橋を越えて、大川筋へ出ました。ここは新大橋と永代橋のあいだで、大川の末は海につづいている。その川中まで漕ぎ出した頃に、どうしたものか、屋根船の底から水が沁み込んで来ました。女中たちが見つけて騒ぎ出す、主人もおどろく、船頭も驚いてあらためると、船底の穴から水が湧き込んで来るんです。慌てて有り合わせた物を栓にさしたが、どうも巧く行かない。ふだんならば此の辺に何かの船が通る筈ですが、あいにく夕方でほかの船も見えない。そのうちに水はだんだんに増して来て、大きくもない屋根船は沈みかかる。船頭は大きい声で助け船を呼ぶ。女中たちも必死になって呼び立てる。それを聞きつけて、佐賀|町《ちょう》の河岸《かし》から米屋の船が二艘ばかり救いに出て来ましたが、もう間に合わない。あれあれと云ううちに、船はとうとう沈んでしまいました」
文久元年といえば、今から三十余年の昔話であるが、その惨事を聞かされて、わたしは思わず顔をしかめた。
「誰も助からなかったんですか」
「船頭は泳ぎを知っているから、いざというときに川へ飛び込んで助かりましたが、因幡守という人は水心《みずごころ》がなかったと見えて沈みました。ほかは女ばかりですから、妾のお早、娘のお春を始めとして、三人の女中もみんな流されてしまいました。さあ大騒ぎになって、すぐに築地の屋敷へ知らせてやる。屋敷からも大勢が駈けつけて、幾艘の船を出して死骸の引き揚げにかかりましたが、もう日が暮れて、水の上が暗いので、捜索もなかなか思うように行かない。それでも因幡守とお早と女中二人、あわせて四人の死骸を探り当てましたが、娘のお春と女中のお信《のぶ》、この二人のゆくえは知れませんでした。
浅井の屋敷ではもちろん相当の金を使ったのでしょう。関係者一同に固く口止めをして、その船に乗っていたのは妾と娘と女中ばかりで、主人の因幡守は駕籠で帰った為に無事であったと云い触らしました。それから四、五日後に因幡守は急病頓死の届けを出して、当年十七歳の嫡子小太郎がとどこおりなく家督を相続しました。こういうことは、屋敷の方で何かのぼろを出さない限り、上《かみ》では知らぬ振りをしているのが其の当時の習いでしたから、すべてが無事に済みました。しかし済まないのは、その船の詮議です。たとい主人の因幡守が乗っていないとしても、三千石の旗本の娘と妾と三人の女中を沈めた一件ですから、災難だとばかりは云っていられません。どうして船底から水が漏ったのか、一応の詮議をしなければならないのですが、船頭の千太は後難を恐れたとみえて、船宿の三河屋へ一旦帰りながら、その晩のうちに何処へか姿を隠してしまいました。
こういう場合に逃げ隠れをすると、かえって本人の不為《ふため》になるばかりか、主人の三河屋にも迷惑をかける事になる。千太が姿を晦《くら》ました為に、三河屋はいろいろの吟味をうけて、大迷惑をしました。考えようによっては、主人が知恵をつけて千太を逃がしたようにも疑われますから、猶更むずかしい事になりました。というのが、だんだん調べてみると、この一件が唯の災難でなく、そこには何か入り組んだ秘密があるらしく思われたからです。
たくさんの旗本屋敷のうちには随分いろいろのごたごたがあります。しかし身分が身分ですから、まあ大抵のことは大目《おおめ》に見ているんですが、今度の一件は三千石の大家《たいけ》の当主が死んでいるんですから、上《かみ》でも捨て置かれません。家督相続の問題はひとまず無事に聞き届けて置いて、それから内密に事件の真相を探索することになりました。まかり間違えば、三千石の浅井の家は家督相続が取り消されて、さらに取り潰しにならないとも限らないのですから、その時代としては容易ならない事件とも云えるのです。
そのお荷物をわたくしが背負わされました。役目だから仕方が無いようなものの、町方《まちかた》と違って屋敷方の詮議は面倒で困ります、町屋《まちや》ならば遠慮なしに踏み込んで詮議も出来ますが、武家屋敷の門内へは迂濶《うかつ》にひと足も踏み込むことは出来ません。殊にわれわれのような商売の者は、剣もほろろ[#「ほろろ」に傍点]に追い払われるに決まっていますから、いわゆる盲の垣のぞきで、外から覗くだけで内輪の様子はちっとも判りません
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