かみ》の屋敷の辻番所を横に見て、業平橋を渡ってゆくと、そこらは一面の田畑で、そのあいだに百姓家と植木屋がある。長五郎の家をたずねるとすぐに知れた。
大きい旗本屋敷に出入り場もあり、娘を浅井の屋敷に勤めさせて相当の手当てを貰っている為であろう、長五郎の家はここらでも目立つほど大きい構えで、広い植木溜めにはたくさんの樹木が青々とおい茂っていた。門口《かどぐち》には目じるしのような柳の大木が栽《う》えてあって、まばらな四目垣《よつめがき》の外には小さい溝川《どぶがわ》が流れていた。その土橋を渡って内へはいると、鶏がのどかそうに時を作っているばかりで、家内はしんかんと鎮まっていた。
不幸後まだ間もないのであるから、それも無理はないと思いながら、半七は入口らしい方を探してゆくと、南向きの縁さきへ出た。ここにも見上げるような椿の大木が、紅いつぼみをおびただしく孕《はら》ませていた。
「御免なさい」
二、三度呼ばせて、奥からようよう出て来たのは、四十五六の女房であった。これがお早の母であろうと想像しながら、半七は丁寧に会釈《えしゃく》した。
「実はわたくしは築地の浅井さまへ多年お出入りを致して居ります建具屋でございますが……。このたびは何とも申し上げようもない次第で……。早速お悔《くや》みに出る筈でございましたが、かぜを引いて小半月も寝込んでしまいまして、ついつい延引いたしました」
用意して来た線香の箱に香奠《こうでん》の紙包みを添えて出すと、女房は嬉しそうに、気の毒そうに受け取って、これも丁寧に礼を述べた。いかに多年の出入りでも、特別の関係がない限りは、妾の親許まで悔みに来る者はない。正直らしい女房は、建具屋と名乗って来た男の厚意をよろこんで、早速に内へ招じ入れた。半七は奥へ通って仏壇に焼香して、ふたたび元の縁さきへ戻って来ると、女房は茶や煙草盆の用意をしていた。彼女は果たしてお早の母のお富であった。
「悪いときには悪いもので、親類うちに又不幸がありまして、親父はゆうべから戻りません」
遠方を来たのであるから、まあゆっくり休んで行けと、お富は云った。どう見ても、悪意の無さそうな女である。引き留められたのを幸いに、半七は坐り込んで煙草を吸いはじめると、浅草寺《せんそうじ》の八ツ(午後二時)の鐘がきこえた。
四
半七とお富と、初対面の二人のあいだに変った話題はない。殊に今の場合であるから、話は当然かの一件をくり返すことになって、娘をうしなった母の眼からは、また今さらに新らしい涙が湧いた。お富の話によると、亭主の長五郎も正直な職人|気質《かたぎ》の人物であるらしく、娘は多年御恩を受けた殿さまのお供をしたのであるから、死んでも悔むことは無いと云っている。又、それに就いて、お屋敷の御迷惑になるような事は決して口外してはならないと、女房らをも堅く戒めているとのことであった。
「親方の御料簡はよく判っています」と、半七も同情するように云った。「しかし世間の口はうるさいもので、今度の一件に就いてもいろいろの噂を立てる者がありますよ」
「どんなことを云って居ります」と、お富は眼をふきながら訊《き》いた。
「実は……。お前さん達の前じゃあ云いにくい事ですが……」と、半七は渋りながら答えた。「誰かが船底へ細工をして……」
「やっぱりそんなことを云って居りますか」
「お部屋さまを沈めようとした……」
云いかけて相手の顔色を窺うと、お富は黙って考えていた。
「そんなことを云っちゃあなんですが……。どこのお屋敷でも、奥さまとお部屋さまとは折り合いのよくないもので……」
「あれ、お前さん。飛んでもない」と、お富はたしなめるように云った。「それじゃあ奥さまが何か細工をして、内の娘を沈めたとでも云うのですかえ。そりゃあ違います、大違いです。お屋敷の奥さまに限って決して決して、そんな事をなさるような方《かた》じゃありません。奥さまはまことに結構なお方で、それはわたしが請け合います。一体お前さんはそんなことを誰に聞いたのです」
激しい権幕で詰問されて、半七も少しく返事に困った。
「いや、奥さまに限ったわけじゃあありませんが、お屋敷には大勢《おおぜい》の男もいる、女もいる。その大勢のうちには自然こちらの娘さんと仲の悪い者も無いとは云えません。何かのことで娘さんを恨んでいる者も無いとは限りませんから……」
「そりゃあ恨まれているかも知れませんが……」
何か思いあたることでもあるらしい口ぶりに、半七は透かさず訊き返した。
「世の中には外道《げどう》の逆《さか》恨みと云って、自分の悪いのを棚にあげて、人を恨む者もありますからね。何かそんな心あたりでもありますかえ」
お富はまた黙ってしまった。この夫婦は自分でも云う通り、屋敷の迷惑になることは決して口外
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