くれ」と、半七は云った。「あいつも亦ばっさり[#「ばっさり」に傍点]やられてしまった日にゃあ玉無しだ」
幸次郎を出してやった後、半七は又しばらく考えていた。武家屋敷に係り合いの仕事は元来面倒であるとは云いながら、今度の一件は万事が喰い違いの形で、とかくに後手《ごて》になったのは残念でならない。浅井の屋敷に瑕が付いても構わないから、事件の正体を突きとめてくれと、奥さまは半気ちがいになって頼んだそうであるが、その屋敷も所詮潰れるのであろう。思えば奥さまは気の毒である。せめてはその望み通りに、この事件の顛末を明らかにして、奥さまに一種の満足をあたえるのが自分の役目であると、半七は思った。
そのうちに、彼は何事かを思いついて、ふらりと神田の家を出た。二十八日の宵である。きょうの春雨も其の頃には晴れたが、紗《しゃ》のような薄い靄《もや》が朦朧《もうろう》と立ち籠めて、行く先は暗かった。大通りの店の灯《ひ》も水のなかに沈んでいるように見えた。半七はその靄に包まれながら、築地の方角にむかった。
南小田原町へ辿り着いて、船宿の三河屋を表から覗くと、今夜は軒の行燈をおろして、商売を休んでいるらしかった。隣りの竹倉という船宿で訊くと、お信の死骸は検視が済むや否や、すぐに下谷|稲荷町《いなりちょう》の女房の里方へ運んで、今夜はそこで内々の通夜《つや》をするらしく、三河屋の家内はみな下谷へ出て行って、亭主の清吉ひとりが留守番をしているとの事であった。
半七は再び三河屋の店さきに立って声をかけると、奥から亭主が出て来た。清吉はもう四十以上の頑丈そうな男で、半七を見て、仔細らしく顔をしかめたが、又すぐに打ち解けて挨拶した。
「親分でございましたか。まあ、どうぞこちらへ……」
「どうも悪いことが続いて、お気の毒だね」と、半七は店さきに腰をおろした。「そこで清吉。今夜は御用で来たのだから、そのつもりで返事をしてくれ」
清吉は形をあらためて、無言でうなずいた。
「早速だが、おめえに訊きてえことがある。姪のお信は先月の一件以来、小ひと月のあいだ何処に忍んでいたのだね」
「存じません」と、清吉ははっきり[#「はっきり」に傍点]と答えた。「実は何処から出て来たのかと、わたくしも不思議に思っている位でございます。小ひと月も便りがありませんので、死骸は遠い沖へ流されてしまって、もう此の世にはいないも
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