すね。その矢口渡に似たような事件があるんですが……。恐らく太平記か芝居から思い付いたんじゃないでしょうか」
「矢口渡に似たような事件……。それにはあなたもお係り合いになったんですか」
「かかり合いましたよ」
 こうなると、芝居の方は二の次になって、わたしは袂に忍ばせている手帳をさぐり出すことになった。狡《ずる》いと云えば狡いが、なんでも斯ういう機会を狙って、老人のむかし話を手繰《たぐ》り出さなければならないのである。それは相手の方でも万々察しているらしい。
「はは、いつもの閻魔帳が出ましたね。これだからあなたの前じゃあうっかり[#「うっかり」に傍点]した話は出来ない」
 老人は笑いながら話し始めた。
「文久元年一月末のことと御承知下さい。ほんとうを云うと、この年は二月二十八日に文久と改元のお触れが出たのですから、一月はまだ万延二年のわけですが……。その頃、京橋の築地、かの本願寺のそばに浅井|因幡守《いなばのかみ》という旗本屋敷がありました。三千石の寄合《よりあい》で、まず歴々の身分です。深川の砂村に抱え屋敷、即ち下《しも》屋敷がありまして、主人をはじめ家族の者が折りおりに遊びに行くことになっていました。そこで一月の末、なんでも二十六七日頃だと覚えています。この年は正月早々からとかくに雨の多い春でしたが、二十二三日からからり[#「からり」に傍点]と晴れて、暖い梅見日和がつづいたので、浅井の屋敷では主人の因幡守が妾のお早と娘のお春を連れて、砂村の下屋敷へ梅見に出かけることになりました。因幡守は四十一歳、お早は二十四歳、お春は十五……ちょっとお断わり申して置きますが、このお春というお嬢さまはお早の妾腹ではなく、お蘭という奥さまの子で、奥さまはそれほどの容貌《きりょう》よしでもなかったが、その腹に生まれたお春は京人形のように可愛らしい、おとなしやかなお嬢さまであったそうです。
 そこで主人側は因幡守、お早、お春の三人、それにお付きの女中が三人、供の侍が三人、中間が四人でしたが、船が狭いので侍や中間は陸《おか》を廻り、主人側三人と女中三人は船で行きました。船宿《ふなやど》は築地南小田原|町《ちょう》の三河屋で、屋根船の船頭は千太という者でした。無事に砂村へ行き着いて、一日を梅見に暮らして、ゆう七ツ(午後四時)頃に下屋敷を出て、もとの船に乗って帰る途中、ここに一場の椿事|出来《
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