親方はかぜを引いたと云って奥に寝ているとのことであった。
「お信というのはどんな女だ、容貌《きりょう》はいいのか。馬鹿か、怜悧《りこう》か」と、半七は訊《き》いた。
「容貌は悪い方じゃありません。十人並よりちっといい方でしょうね。人間もなかなかしっかりしているようです」と、金八は答えた。「ここの家にゃあ子供がないので、お信さんに婿でも取らせるつもりらしかったのですが、こうなっちゃあ仕様がありません。親方もおかみさんもがっかり[#「がっかり」に傍点]していますよ」
「そりゃあ気の毒だな。そこで、お信はなぜ暇を取るのを忌《いや》だと云うのだ」
「よくは知りませんが、屋敷の奥さまが大そう眼をかけて下さるそうで、あんないいお屋敷は無いと始終云っていましたから、そんなことで暇を取る気になれなかったのでしょう。まったくあの屋敷の方々《かたがた》はみんないい人で、若殿さまは優しいかたですし、お嬢さまもおとなしいかたですからね」
「そんなにいい人揃いか」
「みんないい人ですよ。それに若殿さまはここらでも評判の綺麗なかたで、去年元服をなさいましたが、前髪の時分にゃあ忠臣蔵の力弥《りきや》か二十四孝の勝頼《かつより》を見るようで、ここから船にお乗りなさる時は、往来の女が立ちどまって眺めているくらいでした」
「そういう若殿さまがいるので、お信も暇が取れなかったのだろう」と、半七は笑った。「そこで、金八、きょうは御用で来たのだ。一件の船というのを見せてくれ」
「船はそこに繋いであります」
 金八は先に立って河岸に出ると、かの屋根船も杭《くい》につながれていた。折りからの引き汐で、海に近いここらの川水は低く、岸のあたりは乾いていた。小さい桟橋を降りて、二人は船のそばに立った。
「おれは素人《しろうと》でわからねえが、どうして水が漏ったのだろう。やっぱり底が傷《いた》んでいたのかな」と、半七は云った。
「さあ」と、金八は首をかしげた。「船が古くなって、底が傷んだのだろうというのですがね。成程、古くはなっているが、水が漏るほどの事はありませんよ。親方はうっかり[#「うっかり」に傍点]した事をしゃべるなと云うので、わっしは黙っていますがね。どうもこりゃあ誰かが仕事をしたのだろうと思うのですが……」
「どんな仕事をしたのだ」
「誰かが抉《えぐ》ったのですよ。醤油樽の呑口のようにはなっていねえが、船底
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