、半七も松吉も肚《はら》の中でおかしくなった。
 二人はいい加減に酒を切り上げて、遅い午飯《ひるめし》の箸を取っていると、町家の夫婦らしい男女と、若い男ひとりの三人連れが二階へあがって来た。ここの二階は広い座敷の入れ込みで、ところどころに小さい衝立《ついたて》が置いてあるだけであるから、あとから来た客の顔も見え、話し声もよくきこえた。三人は女中にあつらえ物をして、煙草をのみながら話していた。
「どうも驚いてしまった。あれだから油断が出来ないね」と、女房らしい女が云った。
「まったく驚いた。世間にはああいう事があるから恐ろしい」と、亭主らしい男も云った。
「藤さんなんぞは若いから、よく気をつけなけりゃあいけない」と、女はまた云った。
 それから此の三人が、だんだん話しているのを聴くと、芝の両替屋の店さきで何事か起こったらしい。半七に眼配《めくば》せされて、松吉は衝立越しに声をかけた。
「あの、だしぬけに失礼ですが、芝の方に何事があったのですかえ」
「ええ」と、若い男は答えた。「わたし達は別に係り合いがあるわけじゃあない、通りがかって見ただけなんですが、どうも悪い奴がありますね」
「悪い奴……。一体どうしたのです」と、松吉は訊いた。
「それがお前さん」と、男は衝立を少し片寄せて向き直った。「芝の田町《たまち》に三島という両替屋があります。そこへ二十歳《はたち》ばかりの若い男が来て、小判一両を小粒と小銭に取り換えてくれと云うので、店の者が銭勘定をしていると、そこへ又ひとりの女が来て、いきなりに其の若い男をつかまえて、この野郎め、家の金を又持ち出してどうするのだ。親泣かせ兄弟泣かせもいい加減にしろ。それほど道楽がしたければ、自分の腕で稼ぐがいい。親兄弟の金を一文でも持ち出すことはならないぞ。さあ、その金をかえせと若い男を引き摺り倒して、手に持っている小判を取り上げて、さっさ[#「さっさ」に傍点]と立ち去ってしまいました。それを見ている両替屋の店の者も、通りがかりの人達も、これは世間によくあることで、道楽息子が家の金を持ち出したのを、おふくろか叔母さんが追っかけて来て、取り返して行ったのだろうと思って、誰もそのままに眺めていると、倒れた男はいつまでも起きないので、不思議に思って引き起こすと、男は気を失っているらしい。さあ、大騒ぎになって介抱すると、男はようよう息を吹き返したのですが、よくよく訊いてみると、自分をつかまえて文句を云った女は、まるで知らない人間で、そんなことを云って一両の小判を掻っさらって逃げたのだそうです。何か道楽息子を叱り付けるようなことを云って、そこらの人たちに油断させて、平気でまっ昼間、大通りの店さきで掻っ攫いを働くとは、女のくせに実に大胆な奴じゃあありませんか」
「成程ひどい奴ですね」と、松吉はうなずいた。「それにしても、相手は女だというのに、その若い男がどうして素直に金を渡したのでしょうね」
「それが又不思議なことには、その女が男をひき摺り倒すときに、なんでも頸筋のあたりの脈所《みゃくどこ》を強く掴んだらしいので、男は痛くって口が利けない。おまけに脾腹《ひばら》へ当て身を食わされて、気が遠くなってしまったのだそうです。それがなかなかの早業《はやわざ》で、見ている人たちも気が付かなかったと云いますから、女も唯者ではあるまいとみんなが噂をしていましたよ」
「そうですか。そんな女に出逢っちゃあ、大抵の男は敵《かな》いませんね」
 松吉はわざとらしく顔をしかめて見せた。
「その騒ぎで、両替屋の前は黒山のような人立ちで……」と、女房は入れ代って話した。「その店でも後で気が付いたのですが、十日ほど前の夕がたに外国のドルを両替えに来た女がある。それがきょうの女らしくも思われるが、前に来たときは夕方で薄暗かったので、その顔をはっきりと見覚えていないと云うのです」
 半七と松吉は顔をみあわせた。二人の眼は光っていた。

     四

 丸子の店を出て、半七は松吉に別れた。
「じゃあ頼むよ」と、半七は小声で云った。「おめえはこれから坂井屋へ行って、お糸という女のことを調べてくれ。それから伊之助という建具屋のことも宜しく頼むぜ。おれは芝の両替屋へ行って、その女の詮議をしなけりゃあならねえ。外国のドルを持っているというのが気になるからな」
 鮫洲方面探索を松吉にあずけて、半七は品川から芝の方角へ真っ直ぐに引っ返した。田町の三島という両替屋へ行って訊《き》きただすと、事件は聞いた通りであった。一両の金を取られた若い男は、おなじ芝ではあるが神明前の絵草紙屋の道楽息子で、自身番でいろいろと詮議の末に、実は自分の家の金を内証で持ち出したのであることを白状した。してみると、かの女の云ったのも満更の嘘ではない。こんな災難に出逢ったのも所詮《しょせん》は親の罰であろうと、彼は自身番でさんざんに膏《あぶら》をしぼられて帰った。
 それを聞いて、半七はおかしくもあり、可哀そうでもあった。
「それから、ここの店へドルを両替えに来た女があったと云うが、本当かえ」
「十日ほど前の夕がたに来ました。しかし手前どもでは外国のドルの両替えは致さないからと云って断わりました」と、店の者は答えた。
「それがきょうの女とおなじ奴かえ」
「さあ、それがよく判りませんので……。前に来たときは夕方で、断わるとすぐに帰ってしまったもんですから、その顔をよく見覚えて居りません。きょうの女は三十七八で、色のあさ黒い、眼の強《きつ》い女でした。どこか似ているようにも思うのですが、確かな証拠もございませんので、なんとも申し上げかねます」
「おなじ店へ二度とは来めえと思うが、その女がもし立ちまわったらば、すぐに自身番へ届けてくれ」
 店の者に云い置いて、半七は更に愛宕下《あたごした》の藪の湯をたずねた。藪の湯は女房が商売をしていて、その亭主の熊蔵は半七の子分である。そこで熊蔵の通称を湯屋熊といい、一名を法螺熊ということはかつて紹介した。その湯屋熊をたずねると、彼はあたかも居合わせて表二階へ案内した。
「丁度だれも来ていねえようです」
 二階番の女を下へ追いやって、二人は差しむかいになった。
「そこで、親分。なにか御用ですか」
「お此《この》はこのごろどうしている」
「お此……。入墨者ですか」
「そうだ。片門前《かたもんぜん》に巣を食っていた奴だ」
「女のくせに草鞋《わらじ》をはきゃあがって、甲府から郡内の方をうろ付いて、それから相州の厚木の方へ流れ込んで、去年の秋頃から江戸辺へ舞い戻っていますよ」
「馬鹿にくわしいな。例の法螺熊じゃあねえか」
「いや、大丈夫ですよ。わっしだって商売だから、入墨者の出入りぐれえは心得ています。あいつ、又なにかやりましたか」
「どうもお此らしい。実はきょう午前《ひるまえ》に、田町の両替屋で悪さをしやあがった」
 三島屋の一件を聞かされて、熊蔵は眼を丸くした。
「ちげえねえ。あいつだ、あいつだ。お此という奴は、前にも一度その手を用いた事があります。あいつは此の頃、鮫洲の茶屋に出這入りしているとかいう噂だったが、田町の方へ乗り込んで来やあがったかな。おれの縄張り近所へ羽《はね》を伸《の》して来やあがると、只は置かねえぞ。ねえ、親分。松の野郎を出し抜くわけじゃあねえが、この一件はどうぞわっしに任せておくんなせえ。わっしがきっと埒をあけて見せます」
「お此は鮫洲の茶屋にいるのか」と、半七は少し考えていた。「その茶屋は坂井屋というのじゃあねえか」
「そこまでは突き留めていませんが……。なに、そりゃあすぐに判りますよ」
「出し抜くも出し抜かねえもねえ。松はもう鮫洲へ出張っているのだ」
「そりゃあいけねえ。下手に荒らされると、こっちの仕事が仕難《しにく》くなる。じゃあ御免なせえ。わっしもすぐに出かけます」
 気の早い熊蔵は早々に身支度をして飛び出した。女房に茶を出されて、世間話を二つ三つして、半七もつづいて出た。もうこの上は松吉と熊蔵の報告を待つほかは無いので、彼はそれから八丁堀へまわって、熊谷八十八の屋敷へ再び顔を出すと、熊谷はもう奉行所から帰っていた。
「やあ、御苦労。何かちっとは星が付いたか」と、熊谷は待ちかねたように訊いた。
「まだ御返事をする段には行きませんが、ちっとばかり手がかりは出来たようです」
 きょうの探索の結果を聞かされて、熊谷は一々うなずいていたが、かの三島屋の話を聞くと、彼はいよいよ熱心に耳を傾けていた。
「じゃあ、三島屋へも外国のドルを両替えに行った奴があるのか。実は半七、奉行所の方へもこういう訴えが出たのだ」
 おとといから昨日《きのう》へかけて、日本橋で二軒、京橋で一軒の大きい両替屋へ外国のドルを両替えに来た者がある。全体の金高は十二三両であるが、あとで調べてみると其の三分の二は贋金《にせがね》である。最初の見せ金には本物を見せて油断させ、それから贋金をまぜて出すのである。つまりは本物と贋物とをまぜて使うのであるが、しょせんは一種の贋金使いであることは云うまでもない。贋金づかいは磔刑《はりつけ》の重罪であるから、その詮議は厳重である。その両替えに行った者はいずれも三十七八の女であると云えば、三島屋へ云ったのも同じ者であるに相違ない。こうなると、狐の探索などは二の次で、贋金づかいの探索が大事であると、熊谷は云った。
「その女は黒船の異人に頼まれて両替えに来たのだと云ったそうだ」と、熊谷は付け加えた。「異人の奴が贋金づかいで、女は知らずに持って来たのか。それとも女が贋金づかいか。おれにもはっきりとした判断は付かなかったが、三島屋でそんな掻っ攫いをやるようじゃあ、女はなかなかの曲物で、何もかも承知の上でやった仕事に相違ねえ。お此という入墨者はどんな奴だか忘れてしまったが、そいつに心あたりがあるなら早く挙げてしまえ」
「承知しました」
 半七は請け合って帰った。事件はいよいよ複雑になって来たのである。しかもそれらの事件はすべて同一の系統であるらしいと、半七は鑑定した。次から次へと湧いて来る事件も、そのみなもとを探り当てれば自然にすらすらと解決するように思われたので、彼は専ら熊蔵と松吉の報告を待っていた。
 あくる日の早朝に、熊蔵が先ず来た。松吉もつづいて来た。二人の報告を綜合すると、入墨者のお此は江戸へ舞い戻って、浜川の塩煎餅屋の二階に住んでいる。彼女は小間物類の箱をさげて、品川の女郎屋へ出商《であきな》いに廻っている。浜川や鮫洲の茶屋へも廻って、そこらの女中たちにも商いをしている。店の忙がしいときには、女中の手伝いに頼まれて行くこともある。そんなことで女ひとりの暮らしには不自由も無いらしく、身なりも小綺麗にしていると云うのであった。
「お此は商売の小間物を日本橋の問屋へ仕入れに行くと云って、ときどき江戸辺へ出かけるそうです」と、熊蔵は云った。
「現にきのうも朝から出て行ったと云いますから、三島屋の一件は彼女《あれ》に相違ありませんよ」
「それから坂井屋のお糸の一件ですがねえ」と、松吉が入れ代って話し出した。「お糸は先月の二十八日の宵から何処《どっ》かへ影を隠してしまったそうです。建具屋のせがれの伊之助を詮議すると、職人のくせに意気地のねえ野郎で、無闇におどおどしていて埒が明かねえのを、さんざん嚇し付けて白状させましたが、やっぱりお糸にかかり合いがあったのです。そこで、当人はいい色男ぶっていると、お糸は伊之助にだんまりで姿をかくしたので、色男も器量を下げてぼんやりしている……。いや、大笑いです。お糸の相手は誰か判らねえが、黒船のマドロスにだまされて、船へでも引っ張り込まれたのじゃあねえかという噂です。小伊勢の巳之助が狐と間違えてお糸の咽喉を絞めたときに、暗やみから出て来て巳之助をなぐり付けた奴は、そのマドロスかも知れませんよ。こうなると、わっしの方はもう種切れで、この上にどうにも仕様が無いようですが……。親分、どうしますかね」
「お此は鮫洲の茶屋へも手伝いに行くそうだが、坂井屋へも出這入りをするのだろうな」と、半七は熊蔵に訊《き》い
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング