、その顔をも蹴られたと見えて、左の小鬢にも血がしたたっていた。銀杏返《いちょうがえ》しの鬢の毛は羽風にあおられて、掻きむしられたように酷《むご》たらしく乱れていた。
 わが屋の飼い鶏が客に対して、思いもよらない椿事を仕いだしたので、店の者共も蒼くなった。殊に相手が女であるだけに、その気の毒さは又一倍である。店の女房は平あやまりに謝まって、ともかくも女を介抱しながら奥の座敷へ連れ込んだ。女中のひとりは近所の医者を呼びに行くらしく、襷《たすき》がけのままで表へ駈け出した。
 庄太もさすがに呆気《あっけ》に取られていた。半七も無言で眺めていると、鶏は伏せ籠のなかで暴れ狂いながら、無理にあき地の方へ押しやられて行った。

     二

「あの鶏《とり》はどうしたのでしょうね」と、庄太は云い出した。「犬にゃあ病犬《やまいぬ》というものがあるが、鶏にゃあ珍らしい」
 半七はやはり無言で考えていると、女房はやがて奥から出て来て、半七らにむかって頻《しき》りに詫びていた。
「おかみさん」と、半七は訊いた。「ここらじゃあ鶏が何か病気にでもなって、あんな騒ぎをすることが時々にあるのかね」
「それがまことに不思議でございます」と、女房は眉をよせた。「鶏が人にかかるというのは、まんざら無いことでもございませんが、わたくし共では初めてでございます。この通りのお客商売でございますから、一度でもそんな事があれば、決して鶏なぞを飼いは致しませんが、どうしてあの鶏が……あんな様子のいい女のかたに……。まったく訳が判りません。これからも何をするか知れませんから、いっそ男どもに云いつけて、絞めさせてしまおうかと思って居ります」
「あの鶏は前から飼ってあるのかえ」と、半七は又訊いた。
「はい。昨年の五月頃だと覚えて居ります。十羽ほどの鶏を籠に入れて、売りに来た者がありまして、雌鶏《めんどり》と雄鶏《おんどり》のひと番《つが》いを買いましたが、雌鶏の方は夏の末に斃《お》ちてしまいまして、雄《おす》の方だけが残りました。それでもほかの鶏と仲良く遊んで居りまして、ふだんは喧嘩なぞをした事もありませんでしたが、不意に気でも違ったように暴れ出して、人にこそよれ、女のお客さまに飛びかかって、あんな怪我をさせまして……。なんとも申し訳がございません」
「その鶏を売りに来た男というのは、始終ここらへ廻って来るのかね」
「時々に参ります。なんでも百姓の片手間に鶏を買ったり売ったりしているのだそうで……」
「名はなんといって、どこから来るのだね」
「名は……八さんといっていますが、八蔵か八助か判りません。なんでも矢口《やぐち》の方から来るのだそうで……」
「矢口か。矢口の渡しなら六蔵でありそうなものだが……」と、庄太は笑った。
「まぜっ返すなよ」と、半七は横目で睨んだ。「そこで、その八蔵とか八助とかいう男は幾つぐらいだね」
「二十五六だろうと思いますが……。なにしろ一年に一度か二度しか廻って参りませんので……」と、女房は言葉をにごした。
 こちらが余りに詮索するので、相手は一種の不安を感じて来たらしい。こうなっては詮議も無駄だと諦めて、半七は帰り支度にかかった。
「奥の怪我人には挨拶をせずに帰るから、あとで宜しく云っておくんなさい」
「かしこまりました」
 勘定を払って、二人はここを出た。
「親分は頻りに鶏の売り主を詮議していなすったが、なにか眼を着けた事でもあるんですかえ」と、庄太はあるきながら訊いた。
「別にどうということもねえが……。今の一件で、おれがふい[#「ふい」に傍点]と考えたのは、あの鶏と、あの女と……なにか因縁があるのじゃあねえかしら……」
「ふむう。そんな事もねえとも云えねえが……」と、庄太は首をかしげた。「しかし相手が畜生ですからねえ」
「畜生だからたれかれの見さかいなしに飛びかかった……。そう云ってしまえば仔細はねえが、畜生だって相当の料簡がねえとは云えねえ。主人を救った犬もある。恨みのある奴を突き殺した牛もある。あの鶏もあの女に何かの恨みがあるのかと、考えられねえ事もねえと思うが……」
「成程、そう云えばそうだが……。あの女の風体《ふうてい》が……」と、庄太は又かんがえた。「鶏に縁がありそうにも見えねえが……。鳥屋の女房かね」
「まあ、そんなことかも知れねえ。なにしろ、あの女は堅気の人間じゃあなさそうだ。どうも何処かで見たことがあるように思われるのだが……。きょうは仕方がねえから此のまま引き揚げることにして、おめえ御苦労でもあしたか明後日《あさって》、もう一度出直して来て、あの女はそれからどうしたかと訊きただしてくれ。もちろんどっ[#「どっ」に傍点]と倒れてしまうほどの怪我じゃあねえから、医者にひと通りの手当てをして貰って、駕籠で江戸へ帰るに相違あるめえ。ああ
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング