左の脇腹をかかえながら、庭の空地《あきち》に転げ落ちたかと思うと、また這い起きて駈け出して、竹の朽ちている垣根を押し破って、表へくぐり出ると直ぐにのめって倒れた。その腰から下は溢れるばかりの生血《なまち》にひたされていた。
「や、金造か」と、松吉は叫んだ。「おい、どうした、どうした」
金造は倒れたままで声も出さなかった。その間《ひま》に半七は垣を破って内へ駈け込むと、破れ畳にもなまなましい血が流れて、うす暗い家のなかに幽霊のような若い女が、さながら喪神《そうしん》したようにべったり[#「べったり」に傍点]と坐っていた。坐るというよりも半分は倒れたようなしどけ[#「しどけ」に傍点]ない姿で、手には匕首《あいくち》を握っていた。しかもそれが相当の武家の奥方とでも云いそうな人柄であるので、半七も少し躊躇した。
「あなたはどなたでございます」
女は黙っていた。
「あの男はあなたがお手討ちになったのですか」
女はやはり黙っていたが、やがて気がついたように匕首をとり直して、自分の咽喉《のど》に突き立てようとしたので、半七は飛びあがって其の手を押さえたが、もう間に合わなかった。彼女の蒼白い頸筋からくれないの血が流れ出した。
五
半七老人はここまで話して来て、例によって「これでお仕舞」というような顔をした。
「その女は何者ですか」と、私は追いすがるように訊《き》いた。
「その女は湯島の化物稲荷《ばけものいなり》……と云っても、この頃の人にはお判りにならないでしょうが、今の天神|町《ちょう》の一丁目、その頃は松平|采女《うねめ》という武家屋敷の向う角で、そこに化物稲荷というのがありました。なぜ化け物と云ったのか知りませんが、江戸時代には化物稲荷という名になっていて、江戸の絵図にも化物稲荷と出ている位ですから、嘘じゃありません。その稲荷さまの近所に屋敷を持っている塚田弥之助という六百石の旗本の奥さまで、お千恵さんという人でした」
「そんな身分の人がどうして鮫洲の金造という奴の家に来ていたんですか」
「それには仔細があります。その塚田弥之助というのは、今年《ことし》二十二の若い人で、正月いっぱいに江戸を引き払って甲府勤番ということになりました。仕様のない道楽者であるために、いわゆる山流しで甲州へ追いやられたんです。就いては自分の屋敷を他人《ひと》に譲り、そのほかの家
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