て、無風流の半七もときどきに足を止めた。
目あての桂庵は海保寺の門前にあって、入口にむさし屋という暖簾《のれん》が懸かっていた。近所で訊くと、おかみさんは三十三の厄年で川崎の初大師へ参詣に行って、その帰り道で暴れ馬に蹴られて、駕籠に乗って帰って来たが、それから熱が出たので今も寝ているという噂であった。お六は鶏に襲われたことを秘《かく》して、馬に蹴られたと云っているらしい。鶏というのを憚っているのは、そこに何かの仔細が無ければならないと、半七の疑いはいよいよ深められた。彼は思い切って、むさし屋の暖簾をくぐってはいると、手引きらしい四十前後の女が店さきに腰をかけていた。
「ごめんなさい」と、半七は会釈《えしゃく》した。「おかみさんは内ですかえ」
「おかみさんは二階に寝ていますよ」と、女も会釈しながら答えた。「七日ほど前に怪我をしましてね」
「番頭さんは……」
「番頭さん……。勇さんですか」
「ええ、勇さんです」
「勇さんは二、三日留守ですよ」
「どこへ行ったのです」
「さあ、わたしもよく知りませんが、金さんのところへでも行っているのじゃありませんか」
「金さんの家《うち》はどこでしたね」
「金さんの家は……。なんでも鮫洲《さめず》を出はずれて右の方へはいった畑のなかに、古い家が二軒ある。一軒は空家《あきや》で、その隣りが金さんの家だそうですよ」
「いや、ありがとう。おかみさんをお大事に……」
半七はそこを出て、更に近所で訊いてみると、むさし屋に出入りする金さんは金造といって、この品川の宿をごろ[#「ごろ」に傍点]付き歩いて、女郎屋の妓夫《ぎゆう》などを相手に、小博奕などを打っている男であることが判った。それを友達にしている勇さんの正体も大抵想像された。
「ともかくも鮫洲へ行ってみよう」
半七は浜川の方にむかって、東海道をたどって行くと、涙橋のたもとで松吉に逢った。
「やあ、お出かけでしたか」と、松吉は寄って来てささやいた。「実は少し聞き込んだことがあるのですがね。品川の宿の入口に駕籠屋がある。あすこの奴らの話じゃあ、おとといの晩ひとりの若い侍が来て、桂庵のむさし屋はどこだと聞いて行ったそうで……。その侍の年頃や人相が鈴ヶ森の死骸にそっくりですから、やっぱり親分の鑑定通り、鈴ヶ森の一件は鳥亀の奴らに何かの引っかかりがあるに相違ありません。むさし屋の番頭だか亭主だか知
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