が、わざと大勢の眼に付くように、表の店口から飛び出して北新堀の川へ身を投げる……。花鳥は島にいるあいだに泳ぎを稽古したのだそうです。島を破るときにも海の上を半里ほども泳いで、それから漁船に乗せて貰ったのだと云いますから、新堀の川を泳ぐくらいは大丈夫だったんでしょう。
 乱心のために亭主を殺して自殺したということになれば、別に詮議の仕様もないわけです。それでもお節の死骸が見付からないうちは、詮議の手のゆるまない虞《おそ》れがあるので、山女衒《やまぜげん》の半介、これも花鳥の識っている奴ですから、その半介を語らって、例の品川の夜釣りの怪談をこしらえて、形見の片袖を鍋久に持ち込ませました。こうして置けば、お節はいよいよ死んだものと思うだろうという計略です。それでもやっぱり手ぬかりがあって、花鳥は自分の剃刀《かみそり》で久兵衛を殺したので、お節の剃刀は鏡台のひきだしに残っていた。それがどうもおかしいと、徳次もわたくしも睨んだのでした。
 新次郎を取り押えて、大体の見当は付いたんですが、替玉か真者《ほんもの》か、それが確かに判らない。たとい替玉にしても、それが何者だか判らないので、そのまま翌年まで持ち越しになっていた処が、かの娘義太夫の一件で、牢名主の花鳥の噂が出た。花鳥が若い女たちをおもちゃにして、毎日うなぎ飯を食わせるというのが不審の種で、地獄の沙汰も金次第といいながら、牢内で鰻めしを食えば一杯一両にもあたる。島破りの女が百両も二百両も持っているのは、何かの仔細が無くてはならない。おまけに花鳥は泳ぎが出来る。花鳥が木挽町の芝居で召し捕られたのは八月の末で、七月二十九日にはまだ娑婆にいた筈です。してみると、もしや鍋久の替玉は花鳥ではなかったかという疑いが、吉五郎の胸にもわたくしの胸にもふい[#「ふい」に傍点]と浮かんで来たんです。
 さあ、そうなると高輪の半介という奴、これも商売は女衒ですから、花鳥を識っていないとは限らない。おそらく識っているだろうという鑑定で、徳次とわたくしが北町の草履屋へ乗り込みました。今まで助けて置いたのはお上のお慈悲だと云って、すぐに近所の自身番へ連れて行って、徳次がきびしく責めました。わたくしも先度《せんど》の腹癒せに引っぱたいてやりました。いや、乱暴なわけで……。さすがの半介もぎゅう[#「ぎゅう」に傍点]と参って、とうとう素直に白状しました。半介は花鳥から頼まれて、例の怪談がかりでお節の片袖を鍋久にとどけ、鍋久から十両、花鳥から十両、あわせて二十両の礼金を貰って、澄ました顔をしていたんです。これから口が明いて、吉五郎から八丁堀へ申し立て、花鳥は牢内から白洲へ呼び出されて再吟味となりました。
 なにしろ相棒の半介が綺麗に泥を吐いているんですから、花鳥ももう云い抜けは出来ません。覚悟をきめて恐れ入ってしまいました。あとで考える、お節の替玉は見付からない筈です。それからひと月も立たないうちに、花鳥はほかの科《とが》で召し捕られて、すでに牢内に送られていたんですからね。花鳥も娘義太夫なんかを窘《いじ》めたりしなければ、まだ容易に露顕しなかったかも知れません。巾着切りの竹蔵もつづいて挙《あ》げられました。そのなかでも花鳥と新次郎の罪が重く、花鳥は引き廻しの上で獄門、新次郎は死罪となりました。
 その時にこんな話があります。
 花鳥の引き廻しが銀座の大通りにさしかかると、大勢の見物が立っている。そのなかに娘義太夫の小勝というのもまじっていました。これも牢内で花鳥のおもちゃになった女ですが、花鳥は馬の上からすぐに眼をつけて、小勝、小勝と声をかけたそうです。そうして、あたしはお前をさんざん可愛がって上げたんだからね、きょうを命日に線香の一本も供えておくれよと、にっこり笑ったので、小勝は蒼くなって怱々《そうそう》に逃げ出したと云います。花鳥は悪い奴だけに、なかなか度胸のすわった女と見えます」
「小左衛門とお節はどうなりました」
「これにもお話があります」と、老人は云った。
「徳次は今の言葉でいえば職務に熱心、早く云えば根《こん》のいい男で、三年のうちにはきっと小左衛門を引き挙げてみせると云っていましたが、とうとう見つけ出しましたよ。尤もまぐれあたりのようなものですが……。
 花鳥が仕置になったのは天保十三年の五月で、その翌年の五月、ちょうど満一年の後に、徳次は世田ヶ谷の北沢村へ出かけました。そこには森厳寺という寺があって、その寺中に淡島《あわしま》明神の社《やしろ》があります。その寺で淡島さま御夢想の名灸をすえるというので、江戸辺からもわざわざ灸を据えてもらいに行く者があって、一時はずいぶん繁昌しました。
 徳次も脚気の気味だったので、重い足を引き摺りながら北沢まで出て行って、門前の茶屋に持ち合わせていると、大勢のなかに年ごろ四十三四の浪人ふうの男がいる。それが彼《か》の小左衛門らしいので、徳次はそっと眼をつけていると、やがて自分の番が来て浪人は寺内へはいったので、徳次は茶屋の者に訊《き》いてみると、あれは平田孫六という人で、以前はここらで売卜者《うらない》などをしていたが、ひとり娘が容貌《きりょう》望みで砧《きぬた》村の豪家の嫁に貰われたので、今では楽隠居のように暮らしているというのです。こいつ又、鍋久の二番目を出したなと思いながら、徳次もその日は何げなく帰って来て、あらためて手続きをした上で、召し捕りました。
 果たして平田孫六は偽名、実は磯野小左衛門で、お節は鍋久をぬけ出してから、北沢村の百姓清左衛門という者の家に隠れていたんです。清左衛門は小左衛門が勤めていた旗本屋敷に出這入りしていた者で、その縁故で隠まわれていたということです。小左衛門も山谷《さんや》を逃げ出して来て、暫く一緒に忍んでいるうちに、お節の容貌《きりょう》が眼について豪家の嫁に貰われることになって、まず当分は都合よく暮らしていたんですが、こんにちで云えばリョウマチスか何かでしょう、両方の腕がこのごろ痛むので、森厳寺へ灸を据えに来たのが運の尽きでした。お節も勿論、嫁入り先から引き挙げられる筈でしたが、捕り手が向うと、すぐに覚ったと見えて、裏口の古井戸へ飛び込んでしまいました。今度は替玉でなく、確かに本人の身投げでした。よくよく水に縁のある女で、これも何かの因縁でしょう。
 小左衛門の申し立てによると、お節を鍋久へ縁付けて毎月相当の仕送りを受け、自分はそれで満足している積りであったが、それでは第一に花鳥が承知しない。本人のお節も承知しない。それに引き摺られて、だんだんに悪事を重ねるようになったのだと云っていたそうですが、果たしてどんなものでしょうか」



底本:「時代推理小説 半七捕物帳(四)」光文社文庫、光文社
   1986(昭和61)年8月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:しず
2000年1月17日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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