介は花鳥から頼まれて、例の怪談がかりでお節の片袖を鍋久にとどけ、鍋久から十両、花鳥から十両、あわせて二十両の礼金を貰って、澄ました顔をしていたんです。これから口が明いて、吉五郎から八丁堀へ申し立て、花鳥は牢内から白洲へ呼び出されて再吟味となりました。
なにしろ相棒の半介が綺麗に泥を吐いているんですから、花鳥ももう云い抜けは出来ません。覚悟をきめて恐れ入ってしまいました。あとで考える、お節の替玉は見付からない筈です。それからひと月も立たないうちに、花鳥はほかの科《とが》で召し捕られて、すでに牢内に送られていたんですからね。花鳥も娘義太夫なんかを窘《いじ》めたりしなければ、まだ容易に露顕しなかったかも知れません。巾着切りの竹蔵もつづいて挙《あ》げられました。そのなかでも花鳥と新次郎の罪が重く、花鳥は引き廻しの上で獄門、新次郎は死罪となりました。
その時にこんな話があります。
花鳥の引き廻しが銀座の大通りにさしかかると、大勢の見物が立っている。そのなかに娘義太夫の小勝というのもまじっていました。これも牢内で花鳥のおもちゃになった女ですが、花鳥は馬の上からすぐに眼をつけて、小勝、小勝と声をかけたそうです。そうして、あたしはお前をさんざん可愛がって上げたんだからね、きょうを命日に線香の一本も供えておくれよと、にっこり笑ったので、小勝は蒼くなって怱々《そうそう》に逃げ出したと云います。花鳥は悪い奴だけに、なかなか度胸のすわった女と見えます」
「小左衛門とお節はどうなりました」
「これにもお話があります」と、老人は云った。
「徳次は今の言葉でいえば職務に熱心、早く云えば根《こん》のいい男で、三年のうちにはきっと小左衛門を引き挙げてみせると云っていましたが、とうとう見つけ出しましたよ。尤もまぐれあたりのようなものですが……。
花鳥が仕置になったのは天保十三年の五月で、その翌年の五月、ちょうど満一年の後に、徳次は世田ヶ谷の北沢村へ出かけました。そこには森厳寺という寺があって、その寺中に淡島《あわしま》明神の社《やしろ》があります。その寺で淡島さま御夢想の名灸をすえるというので、江戸辺からもわざわざ灸を据えてもらいに行く者があって、一時はずいぶん繁昌しました。
徳次も脚気の気味だったので、重い足を引き摺りながら北沢まで出て行って、門前の茶屋に持ち合わせていると、大勢のなかに年
前へ
次へ
全29ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング