として二百両を贈ることで、まず相談が纏まった。六月はじめの吉日に、お節は鍋久の店へめでたく輿入れを済ませて、若夫婦の仲もむつまじく見えた。
それから更にふた月ほど経て、その年の七月も末になった。旧暦の盂蘭盆《うらぼん》過ぎで、ことしの秋は取り分けて早かった。この二、三日は薄ら寒いような雨が降りつづいて、水嵩の増した新堀川はひえびえと流れていた。鍋久の嫁のお節は十日ほど前から風邪《かぜ》を引いたような気味で、すこし頭痛がするなどと云っていたが、医者に診て貰うほどの事でもないので、買い薬の振り出しなどを飲んでいるうちに、二十九日の朝から何だか様子が変って来た。彼女は怖い眼をして人を睨んだ。これまで暴《あら》い声などを出したことの無い彼女が、激しい声で女中を叱ったりした。病気で癇《かん》が昂《たか》ぶったのであろうから、なるべく逆らわないがいいと、おきぬは久兵衛に注意していた。
鍋久の店では四ツ(午後十時)を合図に大戸をおろそうとした。その時、奥の若夫婦の居問で、ただならぬ久兵衛の叫び声がきこえた。
「これ、お節……。どこへ行く……。これ、お節……」
その声を聞きつけて、母のおきぬは茶の間を出てゆくと、長い縁側の途中でお節に出逢った。若い嫁は顔も隠れるほどに黒髪を長く振り乱して、物に狂ったように駈け出して来たので、おきぬは驚きながら、ともかくもそれを支えようとすると、お節は力まかせに彼女を突きのけた。その勢いが余りに激しかったので、おきぬはひとたまりもなく突き倒されて、まばらに閉めてある雨戸に転げかかると、雨戸ははずれた。その雨戸と共に、おきぬは暗い庭さきへころげ落ちた。
この物音は表の方まで響いたので、店の者もみな驚いて奥へ駈け込もうとする時、出逢いがしらにお節が飛び出して来たので、彼らは又おどろいた。しかも相手が主人であるので、さすがに手あらく取り押えかねたのと、あまりの意外に少しく呆気《あっけ》に取られて、唯うっかりと眺めているうちに、お節は彼らを突きのけて、今や卸しかけている大戸をくぐって表の往来へぬけ出した。
「早く押えろ」と、番頭の勘兵衛は呶鳴った。
それに励まされて、若い者や小僧は追って出た。そのなかでも新次郎という若い者が一番さきへ駈け出して、お節の右の袂を捉えようとすると、彼女は身を捻じ向けて振り払った上に、なにか刃物のようなものを叩きつけて又
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