自然に一致したのか、ともかくもズウフラがお話の種になるわけで、ズウフラ怪談とでも申しましょうか」

 安政四年九月のことである。駒込富士前|町《ちょう》の裏手、俗に富士裏というあたりから、鷹匠《たかじょう》屋敷の附近にかけて、一種の怪しい噂が立った。
 ここら一円はすべて百姓地で、田畑のあいだに農家が散在していた。植木屋の多いのもここの特色であった。そればかりでなく、ここらは寺の多いところで、お富士様を祀った真光寺を始めとして、例の駒込吉祥寺、目赤の不動、大観音の光源寺、そのほか大小の寺々が隣りから隣りへと続いていて、表通りの町々も大抵は寺門前であるから、怪談などを流行《はや》らせるにはお誂え向きと云ってよいのであった。
 舞台は富士裏附近、時候は旧暦の秋の末、そこに伝えられた怪談は、闇夜にそこらを往来する者があると、誰とも知らず「おうい、おうい」と呼ぶのである。時には其の人の名を呼ぶこともある。その声が哀れにさびしく、この世の人とは思われないので、気の弱い者は耳をふさいで怱々《そうそう》に逃げ去るのである。たまに気丈の者が「おれを呼ぶのは誰だ」と大きい声で訊き返すこともあるが、それに対して何んの答えもないので、そのままにして行き過ぎると、又もや悲しい声で呼びかける。それが遠いような、近いような、地の底からでも聞えるような、一種異様のひびきを伝えるので、大抵の者はしまいには鳥肌になって、敵にうしろを見せることになるのであった。
「貴公たちはこの噂をなんと思う」
 こう云って一座の若者らを見渡したのは、鰻縄手《うなぎなわて》に住む奥州浪人の岩下左内であった。追分《おいわけ》から浅嘉町《あさかちょう》へ通ずる奥州街道の一部を、俗に鰻縄手という。その地名の起りに就いてはいろいろの説もあるが、そんな考証はこの物語には必要がないから省略することにする。岩下左内という奥州浪人は、四、五年前からここに稽古所を開いて、昼は近所の子供たちに読み書きを教え、夜はまた若い者共をあつめて柔術《やわら》や剣術を指南していた。
 江戸末期の世はだんだんに鬧《さわ》がしくなって、異国の黒船とひと合戦あろうも知れないという、気味の悪いうわさの伝えられる時節である。太平の夢を破られた江戸市中には、武芸をこころざす者が俄かに殖えた。武士は勿論であるが、町人のあいだにも遊芸よりも武芸の稽古に通う若者があ
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