込んで、夜のふけるのを待っていたが、やがて四ツ(午後十時)に近い頃までも彼らを驚かすような化け物は出なかった。松吉は少し待ちくたびれたようにささやいた。
「親分。化け物はまだ来ねえかね」
「秋の夜は長《な》げえ。化け物の来るのは丑満《うしみつ》と決まっていらあ」
「まったく秋の夜は長げえ。ここらで一服吸ってもいいかね」
「いけねえ。燧石《ひうち》の火は禁物《きんもつ》だ」
「いやに暗い晩だね」
「暗いから火は禁物だというのだ」
 その暗い夜を照らすような稲妻《いなづま》が、軒さきを掠《かす》めて弱く光った。稲妻は秋の癖である。それは不思議でもなかったが、別に半七らをおどろかしたのは、二人が控えている本堂の庭さきに一人の女がたたずんでいる事であった。女は縁に近寄って、首をのばして内を窺っているらしく、稲妻に照らされた顔は蒼白く見られた。
 いつの間に忍んで来たのか知らないが、自分らの眼のさきに怪しい女の顔がだしぬけに浮き出したので、二人とも思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とする間《ひま》もなく、稲妻は消えて元の闇となった。化け物はいよいよ現われたのである。半七はすぐに起って、暗い庭さきに飛び降りた。
 これと同時に、かの古井戸あたりでも何か飛び込んだような水の音がきこえた。半七は暗い中で声をかけた。
「松。井戸の方へ廻ってみろ」
 稲妻はまた光った。怪しい大きい人は芭蕉の蔭にかくれて、手には匕首《あいくち》のような物を持っているらしかった。

     五

「お話は先ずこのくらいにして置きましょう」と、半七老人は云った。「どうです。大抵はお判りになりましたか」
「まだ判りません」と、私は自分の神経の鈍《にぶ》いのを恥じるように答えた。「その女は無論つかまえたんでしょうね」
「女ですか。ひとりは捉まえたが、一人は逃がしてしまいましたよ」
「じゃあ二人ですか」
「ひとりは匕首を持っていた女……。そいつは刃物を振りまわして、私に斬ってかかって来ましたが、こっちも商売ですから、空手でどうにか捻じ伏せてしまいました。もう一人の女……例の古井戸の方へ忍んで来た奴は、松吉を突き退けて逃げたんです。なにしろ真っ暗闇ですからね」
「井戸へ飛び込んだのは誰なんです」
「飛び込んだのじゃあない、投げ込んだのですよ。男の死骸を……」
「男の死骸……」
「元八という奴の死骸です」
「元八も
前へ 次へ
全23ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング