って多人数の集合すること、遊楽めいたこと等は、すべて遠慮するのが其の時代の習慣であったので、さし当り七月二十六夜の月待ちには高台や海岸に群集する者もなかった。翌月の十五夜も月見の宴などは一切遠慮で、江戸の町に芒《すすき》を売る声もきこえなかった。
「いい月だなあ」
ひとり言を云いながら、路ばたに立って今夜の明月を仰いでいたのは、押上村の農家のせがれ元八であった。元八はことし二十一で、小博奕なども打つという噂のある道楽者だけに、今夜の月を自分の家でおとなしく眺めていることも出来ず、これから何処へ遊びに行こうかなどと考えながら、ほろよい機嫌でここらの田圃路《たんぼみち》をうろ付いていると、浅黄の手拭に顔をつつんだ一人の女に出逢った。
「あの、ちょいと伺いますが、神明様はこの辺でございましょうか」と、女は訊《き》いた。
「神明様……。徳住寺のかえ」と、元八は月あかりに女の顔をのぞきながら答えた。「徳住寺へ行くなら、あと戻りだ」
「行き過ぎましたか」
「むむ、行き過ぎたね」と、元八はまた答えた。「これから半町ほどもあと戻りをして、往来へ出たら右へ曲がるのだ」
「ありがとうございます」
女は会釈《えしゃく》して引っ返して行った。手ぬぐいに顔を包んでいながらも、それが年の若い色白の女であることを元八は認めたので、暫くたたずんで彼女のうしろ姿を見送っていた。
「ここらで見馴れねえ女だ。狐が化かしにでも来たのじゃあねえかな」
化かす積りならば、そのまま無事に立ち去る筈もあるまいと思うに付けて、ほろよい機嫌の道楽者は俄かに一種のいたずらっ気を兆《きざ》した。彼は藁草履《わらぞうり》の足音をぬすみながら、小走りに女のあとを追ってゆくと、女はそんなことには気が付かないらしく、これも夜露を踏む草履の音を忍ばせるように、俯向き勝ちに辿って行った。月が明るいので見失う虞《おそ》れはないと、元八も最初はわざと遠く距《はな》れていたが、往来へ近づくに従って彼は足を早めた。もう三、四間というところまで追い着くと、女もさすがに気がついて振り返った。
覚られたと知って、元八はすぐに声をかけた。
「姐さん、姐さん。神明さまへ行く途中には、暗い森があって物騒だ。おれがそこまで一緒に行ってやろう」
なんと返事をしたらいいかと、女は少し躊躇している間《ひま》に、元八は駈け足で近寄った。彼は若い女にこす
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