である。亭主が出て行ったあとで、表の戸をたたいた男の声は平七であるらしく思われたのに、それも約束の場所へは行き着かないらしい。ひと筋道で三人出逢わないのは不思議である。
「どうしたんでしょうねえ」と、お国は眉のあとの青いひたいを皺《しわ》めた。「なんぼ何でもおまえさん一人を置き去りにして行くようなことはないでしょう」
「と思うのだが……」と、藤次郎は又かんがえていた。「平公は確かに来たんだね」
「わたしも奥に寝ていたので、顔を見たのじゃありませんけれど、どうも平さんの声のようでしたよ」
「それから親方も一度帰って来ましたよ」と、次八が口を出した。
「あら、親方も帰って来たの」
 それはお国にも初耳であった。
「わたしも出て見やあしませんけれど、親方の声で平さんは来なかったかと訊《き》きましたから、来ませんと云ったら、それっきりで行ってしまいました」と、次八は説明した。
「そうすると、平さんと内の人とは何処かで行き違いになったんだろうね」と、お国は云った。
「それが又どこかで出逢って、いっそ二人で行ってしまおうということになったのかな」と、藤次郎はやや不満らしく云った。
「そんな義理の悪いことをする筈はないんですがねえ」と、お国は藤次郎に対して気の毒そうに云った。「平さんだって内の人だって、あれほど約束して置きながら、おまえさんを置き去りにして行くなんて……」
 いつまでも同じことを繰り返していても果てしがないので、藤次郎は念のためにもう一度、大木戸まで引っ返してみることになった。この押し問答のうちに、近所の家でもだんだんに店をあけ始めたので、お国はもう寝てはいられなくなって、次八と一緒に店の戸をあけ放した。お国は寝道具を片付ける。次八は表を掃く。そのあいだにも一種の不安がお国の胸を陰らせた。平七はともあれ、ふだんから義理堅い質《たち》の庄五郎が約束の道連れを置き去りにして行く筈がない。これには何かの仔細がなければならないと彼女は思った。
「庄さんはどうしましたえ」と、平七がぼんやりした顔で尋ねて来た。
「あら、平さん。おまえさん、今までどこにいたの」と、お国はすぐに訊《き》いた。「内の人に逢いましたかえ」
「いや、庄さんにも藤さんにも逢わねえ」
「さっきこの戸を叩いて、内の人を呼んだのはお前さんでしょう」
「むむ」と、平七はうなずいた。「出がけにここの門《かど》を叩いたら、庄さんはもう出たというから、すぐに大木戸へ行ってみると、まだ誰も来ていねえのさ。夜は明けねえし、犬は吠えやがる。往来なかに突っ立っているのも気がきかねえから、海端のあき茶屋の葭簀《よしず》の中へはいって、積んである床几《しょうぎ》をおろして腰をかけているうちに、けさはめずらしく早起きをしたせいか、なんだかうとうとと薄ら眠くなってきたので、床几《しょうぎ》の上へ横になってついとろとろ[#「とろとろ」に傍点]と寝込んでしまった。そのうちに世間がそうぞうしくなって来たので、眼をさますと、もう夜は明けている。となり近所の茶屋では店をあけはじめる。驚いて怱々《そうそう》に飛び出したが、庄さんも藤さんも見えねえ。こいつは寝ているあいだに置き去りを食ったのかと、ともかくもこっちへ聞きあわせに来たわけさ。いや、飛んだ大しくじりをやってしまった」
 藤次郎とは違って、かれはもう置き去りを覚悟しているらしかった。
「それが大違い、藤さんも今ここへ尋ねて来たんですよ」
 お国から委細の話を聞かされて、平七は狐に化かされたような顔をしていた。そこへ藤次郎がまた引っ返して来て、庄五郎の姿はどうしても見付からないと云った。
「今までは二人に置き去りを食ったかと内々は恨んでいたが、平さんがこうしているのを見ると、そうでもないらしい。まさかに庄さん一人で行きゃあしめえ」と、藤次郎も不思議そうに、溜息をついた。
「そうですとも……。内の人ひとりで出かけて行く道理がありませんわ。ほんとうにどうしたんでしょうねえ」
 不安がいよいよ募って、お国は泣き声になった。

     二

 その日の夕方に、鋳掛屋庄五郎の死体が芝浦の沖に浮きあがった。検死の役人が出張って型のごとく取り調べると、庄五郎のからだには何の疵あとも見いだされなかった。死体を投げ込んだのでないことは、彼がしたたかに潮水を飲んでいるのを見ても容易に察せられた。大師まいりに行くのであるから、もとより大金を所持している筈もなかったが、一朱銀五つと小銭少しばかりを入れてある紙入れは恙《つつが》なくそのふところに残っていて、ほかには何も紛失物はないと女房のお国は申し立てた。
 前後の事情によって判断すると、三人のうちでも庄五郎が真っ先に約束の場所へ行き着いたらしい。ほかの道連れを待つあいだ、かれは海岸の石垣にでも腰をかけていて、あやまって転
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