]とした。

     二

 むらさきの鯉は怪しい女の手によって、台所のあげ板の下から持ち出された。鯉はかれの両袖にかかえられて、おとなしく運び去られるのを、女房は唯うっかりと眺めていると、女は帰るときにお徳に云った。
「どうもありがとうございました。今のわたくしとしては別にお礼の致しようもございませんが、これからは蔭ながらおまえさん方夫婦の身の上を守ります」
 かれは足音もしないように表へ出て、その姿は五月《さつき》の闇に隠されてしまった。それを見送って、お徳はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。かれは夢をみているのではないかとも疑ったが、だんだんに落ち着いてかんがえると、怪しい女はどうも江戸川の水の底から抜け出して来たらしく思われてならなかった。それが普通の人間ならば、いかに夢の告げがあったからといって、人の家の魚をただ取ってゆくという法はない。それに対して相当の償《つぐな》いをしてゆくべき筈であるのに、今のわたくしとしては別にお礼のしようもないと彼女は云った。その代りに、蔭ながらお前たち夫婦の身の上を守るとも云った。そんなことは普通の人間の云うべき詞《ことば》ではない。かれはおそらく一種の霊あるものであろうと、お徳は想像した。そうして、かれが再び引っ返して来るのを恐れるように、お徳は表の戸に栓をおろした。
「それでもすなおに鯉をわたしてやってよかった。うっかり逆《さか》らったらどんな祟りを受けたかも知れない」
 禁断の魚を捕るということがすでに逃がれがたい罪である。その不安に絶えずおびやかされている矢さきへ、測《はか》らずも今夜のような怪しい女に襲われて、お徳はいよいよその魂をおののかせた。夫が帰ったならばすぐにこの話をして聞かせて、今夜かぎりに夜釣りを止めさせなければならないと思いながら、再び長火鉢の前に坐りかけると、檐《のき》の雨だれの音がときどきに聞え始めた。又ふり出したのかと耳をかたむけると、雨の音はだんだんに強くなるらしい。それが今夜のお徳に取り分けて侘《わび》しくきこえて、洗いざらしの単衣《ひとえ》の襟がなんだか薄ら寒く感じられた。かぜでも引いたのかと、肩をすくめて身ぶるいする時、表の戸を軽くたたく音がきこえた。亭主が帰って来たのだろうと思いながら、さっきの女客におびえているお徳はすぐに起つのを躊躇していると、外では焦《じ》れるように小声で呼んだ。
「おい。もう寝たのか」
 それが夫の声であると知って、お徳は先ず安心した。
「おまえさんかえ」
「むむ、おれだ、おれだ。早くあけてくれ」と、外では小声で口早に云った。
 お徳は急いで表の戸をあけると、竹の子笠をかぶった藤吉がずぶ濡れになってはいって来た。かれは手になんにも持っていなかった。
「釣り道具は……」と、お徳は訊いた。
「それどころか、飛んだことになってしまった」
 手足の泥を洗って、湿《ぬ》れた着物を着かえて、藤吉はさも疲れ果てたように長火鉢の前にぐったりと坐った。かれは好きな煙草ものまないで、まず火鉢のひきだしから大きい湯呑みを取り出して、冷《さ》めかかっている薬罐《やかん》の湯をひと息に三杯ほども続けて飲んだ。ふだんから蒼白い彼の顔が更に蒼ざめているのを見て、女房の胸には又もや動悸が高くなった。
「おまえさん。どうしたのよ」
 気づかわしそうにのぞき込む女房の眼のひかりを避けるように、藤吉はうつむきながら溜息をついた。
「悪いことは出来ねえ。どうも飛んだことになった」
「だからさ、その飛んだ事というのは……。焦れったい人だねえ。早く、はっきりとお云いなさいよ」
「実は……。為さんが川へ引き込まれた」
 為さんというのは、町内のちいさい紙屋の亭主で、草履屋とはまったく縁のない商売でありながら、藤吉とは子供のときの手習い朋輩といい、両方がおなじ釣り道楽の仲間であるので、ふだんから親しく往きかいして、岡釣りに沖釣りに誘いあわせて行くことも珍らしくなかった。その道楽が遂に二人を禁断の釣り場所へ導くようにもなったので、お徳は自分の亭主の罪を棚にあげて、その相棒の為さんを悪い友達としてひそかに怨んでいた。しかも、その為さんが川へ引き込まれたと聞いては、かれも驚かずにはいられなかった。
「為さんが引き込まれた……。河童《かっぱ》にかえ」
「河童や河獺《かわうそ》じゃあねえ。魚《さかな》にやられたんだ。おれも驚いたよ」と、藤吉は顔をしかめてささやいた。「いつもの通りに堤《どて》を降りて、ふたりが列《なら》んで釣っていると、やがて為さんが小声で占めたと云ったが、なかなか引き寄せられねえ。よっぽど大きいらしいから跳ねられねえように気をつけねえよと、おれも傍から声をかけたが、なにしろ真っ暗だから見当が付かねえ。それでもどうにかこうにか綾なして、だんだんに手元へひき寄せたらしく、為さんは手網《たも》を持って掬いあげようとする。その途端に、今まで暗かった水の上が急に明るくなって、なんだか知らねえが金のようにぴかぴかと光ったものがあるかと思うと、大きい魚が跳ねかえる音がして、為さんはあっ[#「あっ」に傍点]という間もなしにすべり込んでしまったので、おれもびっくりして押えようとしたが、もういけねえ。暗さは暗し、このごろの雨つづきで水嵩は増している。しょせん手の着けようもねえので、おれも途方に暮れてしまったが、それでも川下《かわしも》の方へ流されて行くうちには、どこかの岸へ泳ぎ付くことがあるかも知れねえと、暗い堤下を探るようにして、どんどん[#「どんどん」に傍点]の堰《せき》の落ち口まで行ってみたが、真っ暗な中で水の音がどんど[#「どんど」に傍点]ときこえるばかりで、為さんの上がって来る様子はねえ。為さんもひと通りは泳げるんだが、なにしろ馬鹿に瀬が早いからどうにもならなかったらしい」
「おまえさん、呼んでみればいいのに……」と、お徳は喙《くち》を容れた。
「それが出来ねえ」と、藤吉は首をふってみせた。「これがほかの所なら、為さんを呼ぶばかりじゃあねえ。大きい声で近所の人を呼んで、なんとか又、工夫《くふう》のしようもあるんだが、なにをいうにも場所が悪い、うっかり大きな声を出してみろ、こっちの身の上にもかかわることだ。もうこうなったら仕方がねえ、これもまあ為さんの運の悪いのだと諦めて、おれもそのまま帰って来たが、どうも心持がよくねえ。ああ、忌《いや》だ、忌《いや》だ」
「ほんとうに忌だねえ」と、お徳も溜息をついた。「だから、あたしがお止しと云うのに、お前さん達が肯《き》かないで出て行くからさ。為さんのことばかりじゃあない、内にも忌なことがあったんだよ」
「どんな事があったんだ」と、藤吉は不安らしく慌てて訊いた。「まさか為さんが来た訳じゃあるめえ」
「為さんが来るものかね。ほかに何だかおかしい女が来たんだよ」
 怪しい女に鯉を抱え出された一件を女房の口から聴かされて、藤吉はいよいよ顔の色を変えた。
「そりゃあどうもおかしいな。その女はいってえ何者だろう」
「ねえ、もしや川から出て来たんじゃ無いかしら」と、お徳は摺り寄ってささやいた。
「むむ。おれも何だかそんな気がする。ゆうべ釣って来たのは雄《おす》の鯉で、その雌《めす》が取り返しに来たんじゃあるめえかな」
「返してやったからいいようなものだが、なんだか気味が悪いね」
「どうも変だな」
 と、藤吉は今更のように表をみかえった。
「外では為さんがあんなことになる。内ではそんな女が押し掛けて来る。どう考えても、むらさきが俺たちに祟っているらしい。まったく悪いことは出来ねえ。もう、もう、これに懲《こ》りて釣りは止めだ」
「それにしても、越前屋の方はどうするの。まさかに知らん顔をしてもいられまいじゃないか」
「それをおれも考えているんだ。おれと一緒に行くことは、おかみさんも知っているんだからな」
「それだから知らん顔はしていられないと云うのさ。おまえさん、これから行って早く知らしておいでなさいよ」
「これから行くのか」と、藤吉は再び顔をしかめた。
「だって、打っちゃっては置かれまいじゃないか。夜が更《ふ》けても直ぐそこだから、早く行っておいでなさいよ」
 追い出すように急《せ》き立てられて、藤吉は渋々ながら出て行った。

     三

「あの人はなにをしているんだろう」
 それから二刻《ふたとき》あまりを過ぎても亭主の藤吉は帰らないので、お徳はまた新らしい不安を感じ出した。そのころの二刻といえば今の四時間である。藤吉が出て行ったのは四ツを少し過ぎたころで、市ヶ谷八幡の鐘が夜《よる》の八ツ(午前二時)を撞《つ》いてからもう小半刻も経ったかと思うのに、かれはまだ帰って来なかった。あるいは越前屋の女房にたのまれて、為さんの死骸を探しにでも行ったのかとも思ったが、何分にもいろいろの奇怪な事件がそれからそれへと続出するのにおびやかされている彼女は、どうも落ち着いてはいられないような気がするので、更けてますます降りしきる雨の中を越前屋へたずねて行った。
 越前屋は小半町しか距《はな》れていないので、すぐに行き着くと、紙屋の店は表の戸をおろしてひっそりしている。常の時ならばそれが当然であるが、今夜こんなに寝鎮まっているのをお徳はすこし不思議に思いながら、ともかくもそっと戸を叩くと、内では容易に返事がなかった。焦《じ》れて幾たびか強く叩くと、小僧の寅次が寝ぼけ眼《まなこ》をこすりながら起きて来た。
「あの、内の人は来ていますかえ」と、お徳は待ちかねて訊《き》いた。
「いいえ」
「来ていませんか」
「今時分藤さんが来ているものか」と、寅次は腹立たしそうに云った。
「おかみさんは……」と、お徳はまた訊《き》いた。
「奥に寝ていますよ」
「旦那は……」
「旦那も寝ていますよ」
 お徳はびっくりした。鯉を釣りあげ損じて、川流れになった筈の為さんが無事に寝ているというのは案外であった。ほんとうに寝ているのかと念を押すと、寅次は確かに寝ていると云った。ゆうべ何処へ行って、何刻《なんどき》に帰って来たかと詮議すると、旦那は五ツ(午後八時)頃に出て行って、四ツ少し過ぎに帰って来たらしい。自分は四ツを合図に店を閉めて寝てしまったから、よくは知らないと寅次は云った。それでもお徳の不審はまだ晴れないので、旦那かおかみさんを起こしてくれと又頼むと、寅次は不承不承《ふしょうぶしょう》に奥へはいったが、やがて女房のお新を連れ出して来た。
「あら、お徳さん。今時分どうしたの。藤さんが急病人にでもなったんですか」と、お新は不思議そうに云った。
「実はこちらへ来ると云って、ふた刻も前に出たんですが、まだ帰って来ないので、なにをしているのかと様子を見に来たんですよ」と、お徳は正直に答えた。
「藤さんが……」と、お新は眉をよせた。「今夜は一度も見えませんよ」
「あら、そうですか」
 お徳は煙《けむ》にまかれてぼんやりと突っ立っていた。ゆうべからの事をかんがえると、かれはやはり夢でも見ているのか、それとも八幡の森の狐にでも化かされているのかと、自分で自分を疑うようにもなった。
「為さんはお内ですね」
 再び念を押すと、お新は内にいるとはっきり答えた。その上に詮議のしようもないので、お徳は気が済まないながらも一旦は空《むな》しく引き揚げるのほかはなかった。
「藤さんは浮気者だから、ここの家《うち》へ来るなんて旨いことを云って、どっかへしけ込んでいるんじゃありませんかえ」と、お新は笑っていた。
 年下の女にからかわれて、この場合、お徳も少しむっ[#「むっ」に傍点]としたが、そんなことを云い争っている時でもないので、かれはそれを聞き流して怱々《そうそう》に帰った。それにしても亭主はどこへ行ったのであろう、もしや留守のあいだに帰っているかも知れないと、急いで内へはいってみると、内は行灯を消したままで藤吉はまだ帰っていなかった。
 死んだはずの為さんは生きていて、生きていたはずの亭主がゆくえを晦《くら》ましたのである。為さんは無事に泳ぎついて助かったのかも知れないが、亭主のゆくえ不明がどうして
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