文久三年の五月なかばである。毎日降りつづく五月雨《さみだれ》もきょうは夕方からめずらしく小歇《こや》みになったが、星ひとつ見えない暗い夜に、牛込無量寺門前の小さい草履屋の門《かど》をたたく者があった。無量寺門前というのは今日の築土八幡町である。このごろは雨つづきで草履屋《ぞうりや》の商売も休みも同様であるばかりか、亭主の藤吉は宵から出ているので、女房のお徳は店を早く閉めて、奥の長火鉢の前で浴衣《ゆかた》の縫い直しをしている時、表の戸をそっと叩く音がきこえたので、お徳は針の手をやめて顔をあげた。今夜ももう四ツ(午後十時)に近い。この夜ふけに買物でもあるまい。おそらく道をきく人ででもあろうかと思ったので、かれは坐ったままで声をかけた。
「はい。なんでございます」
外では又そっと叩いた。
「どなたですえ。お買物ですか」と、お徳はまた訊《き》いた。
「ごめん下さい」と、外では低い声で云った。
なんだか判らないので、お徳もよんどころなしに起ちあがった。狭い店さきへ出て、再び何の用かと訊くと、外では女の細い声で、御亭主にちょっとお目にかかりたいという。内の人は唯今留守ですと答えると、それ
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