、今までのように一|尾《ぴき》二分では売られない、これからは一尾一両ずつに買ってくれと云い出したが、宇三郎は承知しない。現にきょうもその捫著《もんちゃく》で、藤吉は一尾を売らずに帰ったという話をしたので、草履屋の家に一尾の鯉のあることをお糸は知っていたのです。お糸もその時は何の気無しに聴いていたんですが、その明くる晩に旦那の高山が同役を連れて来て、前に云ったようなわけで紫鯉の話が出ると、お糸は不図《ふと》ゆうべの富蔵の話をおもい出した。ここで一番自分の腕を見せてやろうという料簡になって、その鯉をすぐに取って来ようと安請け合いに受け合った。当人の腹では、色男の富蔵にたのんで、藤吉から売って貰うつもりであったんですが、あいにくに富蔵はどこへか出て行った留守で、川春の店にいない。と云って、立派に受け合って来た以上、今さら素手《すで》では帰れない。見ず識らずの草履屋へ行って、だしぬけに鯉を売ってくれと云ったところで相手が取りあう筈もない。思案に暮れた挙げ句の果てに、思いついたのが怪談がかりの狂言で、そこらの井戸の水か何かで髪をぬらしたり着物を湿《ぬ》らしたりして、草履屋の店へたずねてゆくと、丁
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